A Course in Miracles (ボゴタ便り続き)
A Course in Miracles について、書きます。
そのように約束してから二週間余り経ってしまいました。帰国して、落ち着いて書ける機会がまったくなく、今ようやく一時間ほどの余裕ができたので、さっそく始めます。
前回、ボゴタで再会した友人が、A Course in Miraclesを知ってから、他のあらゆる芸術がどうでも良くなってしまった、ということを書きました。
それほどの大革命を自分にもたらす出会い、実はそれこそが、芸術なのですよね。
大芸術、とでも命名すべきでしょうか。
他の芸術がどうでもよくなるほどの大芸術。
この人に出会って、人生が変わった。
この本(たとえば)に出会って、人生が決まった。
そういうことってありますよね? あるようで、ないような?
これだ!と思っても、あとで、「違った」と却下することも?
思い込みだっただけなのかなという失敗をも受け入れながら、さらなる失敗を恐れたりせず、果敢に真の芸術、大芸術に出会っていくのがわたしたちの人生なのかもしれません。そしてそれは、自分でコントロールしようがないもののような気がします。「わたしにはそんな勇気はない」「失恋するくらいなら恋はしたくない」などと強く思ってみても、人生は、どうしたって出会いに向かっていってしまうのではないでしょうか。
A Course in Miracles は、わたしにとって、そのような出会いであり、真の芸術です。
それまでの自分を完全に取り消す力がある、つまり、芸術。
それが一瞬にして為される、つまり、芸術。
言い換えれば、聖なる力です。
説明や、講義や、理屈、論理が要らない、一瞬で伝わるもの。同時に、説明、講義、理屈、論理、すべてが内包されているもの。
そしてその聖なる力とは、「見ていてくれる視線」と言っていいと思うのです。
自分の中に、周りを取り囲んでいる(かのように見える)もの、たとえば、周囲の目とか、社会常識とか、社会道徳とか、社会的習慣や風習とか、あるいは叩き込まれた知識や物の見方とか、そうしたもの全部ときれいに切り離されていて、汚されていなくて、染められていなくて、洗脳されていない生まれたてのものがある。それを見守ってくれている力が存在することによって、それが発動するのを経験すること。これが至高の芸術で。これが聖なる力で。これが、いのちというもの。わたしは自分の経験から、そう感じています。芸術に出会ったから、それがわかった(経験した)のでもあるし、芸術に促され、導かれて経験したから、わかった、のでもあります。
それはまた、経験するということは、心の内なるその力を発動し、それが伸びてゆき、誰かに受け止められ、その人の内なる同様の力を目撃することでもあり、つまり、目の前のその人は、社会の中での、地上においてのその人とは、実は全く違う別の存在なのだということに気づかされるということでもあります。
この経験が、わたしにとってのA Course in Miracles です。
かつてのあらゆる恋愛を取り消してしまう大恋愛です。取り消すということは、どの恋愛も、この大恋愛に取り込まれて融合してしまうということですが。
小文字の恋愛=fall in love には終焉がありますが、大恋愛は大文字=Love is. で、Be 動詞です。摩耗しないのです。いつまでも、どこまでも、一瞬前を取り消してしまう恋の衝撃は続くのです。
ということは、「芸術品」などという形ある何かは存在しないということになりますね。“芸術”は、出会いのこと、本当の出会い、魂が震える出会いのことだということに。
A Course in Miracles は、わたしにとって常に、いつでも、完璧な詩であり、祈りです。完全に論理的ですが、説明も起承転結もありません。リズムだけがあります。
芸術は闘争だ、と言う人がいますが、大芸術のA Course in Miracles は、闘うどころか、その対象と、きれいに、すっきりと離れているのです。力む必要などないのです。闘いのポーズなどどこにも存在しないのです。
わたしとA Course in Miracles は、美術館に行き、そこで初めての見知らぬ画家の作品に出会うように、出会いました。または、懐かしい喫茶店に10年ぶりに立ち寄って、そこで流れてくる音楽に魅せられて、spotifyで曲名とアーティストを知り、出会いの喜びと、長い間忘れていたものを思い出した感覚の、二重の歓喜に打ち震えるような、そんなふうに出会いました。
具体的には、読んでいる本の中に、幾つもの引用が出てきて、「これ何!?」となったのです。
A Course in Miracles は、日本語版を『奇跡のコース』または『奇跡講座』と言いますが、わたしにとっては、厳密には、いつまでも A Course in Miracles です。英語で出会い、英語で受け取ったものだからです。
さて、この大芸術の立ち位置は、というと、次のように要約できるでしょう。(訳し方を、今回少し変えています。)
何ものにも脅かされることがない、それが愛です。
愛でないものは存在しません。
自分を知るとは、この平和を経験することです。
この三行の意味は、誤解、曲解しようのない明白なものです。
明白だから、その経験はどこまでも深いのだし、いつまでも新しいのです。
A Course in Miracles では、“見てくれている視線”のことを、ホーリースピリットと呼びます。この存在の優しさと共に生きることが、この大恋愛の道なのです。
『奇跡のコース』『奇跡講座』は役に立ちますか? と聞く人がいますが、それは、芸術は役に立ちますか? という問いと同じです。
役立つものを探している間は、芸術によって心に革命が起きることはないでしょうし、革命が起きないなら、そこに値打ちはありません。期待して近づいても時間の無駄で、出会いの時を楽しみにして待つことしかないのですね。
たとえば藤井風くんいいよ、聴いてごらん、と、誰に、どの状況で、どんなタイミングで言われるか。それによって、出会いとなるか、スルーするかが決まりますよね。
出会いは起こります。起こるようにできています。ホーリースピリットがいるから。
なので、恐れる代わりに出会いを楽しみにすること、出会いはいつもベスト・タイミングでくるものだから、その時を見逃さないでいられるようにと祈りの心を用意しておくこと、それが、人生を肯定して”愉しい”感覚と親しんで日々を送るコツと言ってもいいかもしれません。
(出会いというのは、聖なる同意のことなので、やってくるものに目を見張るだけでは出会いには結びつかず、そこに自ら近づいていく意欲が要るわけですが、それはまた改めて。)
蛇足:ぼやけた皆既月食の画像は、実家の二階からiPhone(2年前のモデル)で撮ったものです。お目汚しすみません。綺麗な赤銅色も出ていませんね。二階にはもう上がることのなくなった母を上げ、父(父の写真)と3人で、たっぷり一時間半、月の変化を眺めました。窓を開け放ってもセーター要らずの気持ちの良い晩でした。「これも冥土の土産ね〜」と母。ついでに二階のクローゼットに入っている母のドレスの整理をし、月が満月に戻る前に、母の葬式の時に母が着る服が決まりました。
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