人が人の領分を超える時

 niconicoのブロマガサービスが終了するので、noteに過去に書いた記事の移行をしようとしている。が、そうなると否が応でも、どの記事を残して、どの記事を残さないのかを決めなくてはならず、過去に自分が書いた文章を読む羽目になる。

 まるで黒歴史の箱を開けたような気分で、文章のあまりの幼さに閉口、辟易してしまう。何ともバツが悪いのだが、それでも読んでいると、拙い言葉ながらに主張していることには、やはり自分自身の言葉だ、共感できる部分が多い。

 その中で、特に思い入れ深く感じたのは、2017年8月の記事。私が、ボカロの古参リスナー、コバチカ氏を批判した記事だ。

 コバチカ氏は『初音ミクの10年~彼女が見せた新しい景色~|第1回:ハチ(米津玄師)×ryo(supercell)』を読んで、下記の言葉をブログに残した。

一読して二人とも正直だなと思った。特に3ページ目はもう「あけすけに」と言ってもいいくらい。二人ともエンタメ業界で食いぶちを稼ぐアーティストであるわけだけど、(中略)後進にエールを送るほどの余裕がある。つまり、二人にとってここ数年のボカロシーンのヒット曲はなんの驚異にもなっていないということだろう。(中略)ニコ動やボカロシーンが現状のままである限り自分たちは安泰だと。当分の間は第一線だと。僕は行間含め以上のように読んだけど、ネガティブすぎだろうか。でも当たらずも遠からずだと思うよ。彼らを「時代遅れ」にすることができず、(中略)現在のボカロシーンって本当に優しすぎ=ぬるすぎ。投げ掛ける言葉は「おかえりなさい」ではなく「おめーの席はもうねえから!」であったはず。作り手も受け手もナメられ放題、言われ放題のインタビュー記事でした。
http://cobachican.hatenadiary.jp/entry/2017/08/12/233000 より

 人が人に言うべき言葉の領分を超えている。

 私は、過去の記事では『音楽家の創る作品を意識的に「時代遅れ」にさせるべきだった、と言うような口ぶり・考え方や、かつそのキバが「ぬるすぎ」と一般のリスナーにまで及んでいる』のは『傲慢』だと書いた。そして上記の言葉をコバチカ氏に撤回するように書いたが、結局撤回はされなかった。非常に残念ではあったが、こうして私はボカロリスナーシーンに見切りをつけたのである。

 私は、私の手元にあるものだけを愛する。本も、音楽も、人も、世界も。

 

 

詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/