日本語の押韻論:「複数音制約」について

 こんばんは。Sagishiです。

 今回は日本語の押韻にとって特徴的な問題である、「複数音制約」について書いていきます。


1 複数音制約

 日本語は、複数音で1つのアクセント(トーン)を構成する言語です。最低でも1音節2モーラ存在しないと、日本語は基礎的なアクセントを構成できません。

 「複数音で1つのアクセントを構成する言語」というのは、現在わたしが情報として知る限りだと、日本語の他には韓国語・慶尚道方言しかない状態です。

 英語やイタリア語やフランス語のストレス音節が複数音節にまたがることはないですし、中国語の声調が複数音節にまたがることもないです。

 このような特性から、上記の言語におけるrhymeというのは基本的にアクセントが実現される1音節内で行われます。しかし、日本語は根本的に複数音でアクセントが実現されるので、rhymeが行われる区間(rhyme区間)が1音節ないしは1モーラで完結しないだろうと予測されます。事実そうです。

 さらに厄介なのが、日本語のアクセントの実現音数には、理論上は音数の上限が存在しないことです。例えば「イントネーションだから」と書くと7音節10モーラで1つのアクセント句(アクセントの実現単位)になりますし、「ユニバーサルスタジオジャパンだから」と書くと13音節16モーラのアクセント句を作成することもできます。頭おかしいだろこの言語

 そして当たり前ですが、「ユニバーサルスタジオジャパンだから」という語句でrhymeを試みるひとは普通いません。長すぎるから。

 これは極端な例にしても、2モーラや3モーラにまたがるようなrhymeというのが頻発することが予想され、rhyme区間が基本的に複数音になります。これは日本語に特徴的なrhymeの制約といえます。


2 アクセント句単位のrhyme

 しかもさらに問題なのは、日本人自身がこのような制約が存在することに気づいていないということです。

 実際、歴史的にこれまでに日本人が試みてきた押韻定型詩というのは、アクセント句の存在を前提においておらず、「我/揉まれ」や「挑まれて/曲げて」のように、アクセント句の音数を揃えることをしていません。単に語末から何モーラ一致しているというrhymeを実践しています。

 しかし、アクセント句を無視した押韻というのは、句音調やイントネーションを揃えることができていないため、rhymeとしての響きが大幅に減衰します。すると、rhymeが効果的ではないという評価をされることになります。また、rhymeが不格好で美しくないのも問題です。

 よってわたしは、日本語のrhymeは基本的に「アクセント句単位のrhyme」を推奨しています。

 例えば、「我[w'ȧ`rė]/彼[k'ȧ`rė]」「揉まれ[mȯm'ȧrė]/止まれ[tȯm'ȧrė]」「挑まれて[id'ȯmȧ`rėtė]/しごかれて[sʸig'ȯkȧ`rėtė]」「曲げて[mȧg'ėtė]/負けて[mȧk'ėtė]」のようにやるのが、わたしの答えです。

 アクセント句の音節境界とモーラ数を揃える、イントネーションを揃える、句末子音を揃える(可能なら句末子音以外も子音一致性を高める)、句音調の発生モーラを揃える、こういった工夫をすれば、日本語のrhymeは確実に響きますし、詩歌にとって必須となる格調高さも獲得できます。

詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/