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フリーレンOP/YOASOBI『勇者』の歌詞の問題について

 こんばんは。Sagishiです。

 今回は、ざっくりフリーレンOPのYOASOBI『勇者』の歌詞について書いていこうと思います。

 少しまえにもYOASOBIの記事を書いたので、「お前どれだけYOASOBI好きなんだよ…」と言われそうですが、まぁお付き合いください。

 わたしは『葬送のフリーレン』を連載初期あたりからリアタイしていて、かなり読み込んでいる部類だと思うので、今回は原作と関連したことも比較的書けるかなと思います。


1 リリシズムの問題

 大きなところから入ってしまいますが、YOASOBI 『勇者』の歌詞のいちばん残念なポイントは、『勇者』という曲名なのに歌詞に「勇者」と書いているところです。

それはかつてこの地に 影を落とした悪を
討ち取りし勇者との短い旅の記憶

物語は終わり 勇者は眠りにつく
穏やかな日常をこの地に残して

 ほぼ曲の冒頭で、2回「勇者」と書いています。これは良くない。

 なぜダメかというと、『勇者』という曲名(というか単語)って、基本的に「想像を膨らませる余地がない」言葉なんですよね。ドラクエなどのゲームや漫画世界でしか見ない言葉で、日常的に用いることがない、単語の意味じたいは固定的なのに、単語から想起できるイメージは抽象的、こういう単語は詩的にも意味的にも付加価値を出しにくいです。

 しかも「勇者」は原作を直接に指示もするので、事前情報がほぼない曲の冒頭で2回も書かれると、もはや「原作を読め」と言われているに等しいくらい何も表現できていないことになります。

 ストレートな比較になってしまいますが、米津玄師『M八七』に「M87星雲」とか「光の巨人」とか「ウルトラマン」とか、原作を直接に指示する表現が出てきますでしょうか? 出てきませんよね。

 それと書かないでそれを表現するのが普遍的なリリシズムです。

 もし『M八七』が「ウルトラマン」を連呼する歌詞だったら「深み」も「想像を膨らませる余地」もなくなってしまうでしょう。詩的にも意味的にも付加価値を出しにくい、というのはそういうことです。

 これって「愛」を表現するときに「愛している」とだけ言っていれば良いかというと、全然そうではないのと同じことです。むしろ「愛」という言葉を使わないで「愛」を表現してほしい。『勇者』という曲名にしたのなら、歌詞で「勇者」と書かないでほしい。直接的な表現をされてしまうと、歌詞を聴いて想像できるものがなくなり、興醒めしてしまうから。これって表現のひとつの核心なんですよね。

 「YOASOBIはそれでいい」というひとは構いませんけど、日本のトップを走っているアーティストにそういうことをされると、基本的なリリシズムに欠けていると感じてしまいますし、正直わたしは残念に思いました。


2 視点の錯綜

 気づいているひとも多いとは思いますが、YOASOBI『勇者』は歌詞の視点が切り替わる楽曲です。

 曲の冒頭は、いわゆる「3人称・神の視点」=「ナレーション」で書かれた歌詞ですね。

まるで御伽の話 終わり迎えた証
長過ぎる旅路から 切り出した一節
それはかつてこの地に影を落とした悪を
討ち取りし勇者との短い旅の記憶

 「討ち取りし勇者との短い旅の記憶」などが特に分かりやすいですが、物語の「ナレーション」になっています。曲が進んでいくと『葬送のフリーレン』の主人公・フリーレン視点の「1人称」に接近していきます。

それでも君の 言葉も願いも勇気も
今も確かにの中で生きている

 ナレーションで「私」というのはおかしいので、歌詞の視点が切り替わっていることが分かります。1番の歌詞はサビに向かってぐっと視点が「1人称」へフォーカスするので、楽曲構成ともリンクしていて、ドラマチックな展開を演出できていると感じます。

 ナレーションから1人称に視点が遷移する曲は比較的珍しいですが、1番においては特に問題を感じません。ただ、2番になると少し様相が変わってきます。2番からは、歌詞の視点が曖昧で、錯綜的な状態になってきます。

物語は続く 一人の旅へと発つ
立ち寄る街で出会う 人の記憶の中に残る君は

 「物語は続く/一人の旅へと発つ」という表現はナレーションのように思えます。「物語は続く/一人の旅へと発つ」がフリーレンの一人称の語りだとすると、かなりへんてこですよね。しかし直後に「君は」と言っていて、そうなると、このパートの歌詞の視点がどこにあるのかが微妙に定かではなくなってきます。この傾向は以降も継続し、2番ブリッジパートでは、

まるで御伽の話 終わり迎えた証 (←この節はナレーション)
私を変えた出会い 百分の一の旅路(←この節は1人称)

 という風に、小節ごとに視点が切り替わっています。ラストコーラスも、かなり視点の位置が不確定です。

振り返るとそこにはいつでも   (←1人称)
優しく微笑みかける 君がいるから(←1人称)
新たな旅の始まりは       (←ナレーション?)
君が守り抜いたこの地に     (←1人称?)
芽吹いた命と共に        (←ナレーション?)

 「新たな旅の始まりは」や「芽吹いた命と共に」などの言い回しは、1人称っぽくないです。特に原作を考慮すると、フリーレンが「芽吹いた命」なんて言い回しをすることには違和感を覚えます。だからナレーションなのかと思うと、「君が」と続くので1人称のようにもみえます。ここの歌詞が「勇者が守り抜いたこの地に」になっていると、ナレーションだと確定するのですが。

 というように、かなり視点が錯綜した歌詞になっていることが分かると思います。1番だけを聴くと問題は感じないですが、全体を通すと、わたしはかなり混乱してくる感覚があります。ナレーション的になったり1人称寄りになったり、視点が曖昧になったり、場面場面で切り替わるので、楽曲への没入感も削がれる感覚があります。


2-2 背景と評価

 しかしなぜ、YOASOBI『勇者』はわざわざナレーションを歌詞に採用し、視点を切り替えることをしているのでしょうか。最初からナレーションを採用しなければ、視点の錯綜が起きることもなかったはずです。

 まぁ、これは間違いなく『葬送のフリーレン』の主人公・フリーレンに理由があると思います。

 原作要素に触れることになりますが、フリーレンというキャラクターは非常に行動主義的です(今どき行動主義とか言わんか…)。基本的にフリーレンは自分の感情がどうなっているのかを明確に発露しませんし、自分や他者の感情をあまり把握できないようなキャラクターです。それは、次のような原作の科白からも分かります。

「フリーレン様は本当に人の感情がわかっていませんね」

1巻126ページより

 フリーレンは基本的にひとの気持ちをトレースできません。こういうキャラクターの1人称視点の歌詞を書くのは、きわめて難しいといえます。なるべく1人称を避けたほうがベターになる可能性が高いですし、また主人公の寿命が非常に長いので、時間的なロングレンジさを表現するという理由でもナレーションを採用するのは頷けます。

 かと言って、歌詞のすべてをナレーションにすると、常に引きアングルの楽曲になってしまい、リスナーの共感性や没入感を生むことができなくなります。それはそれで問題なので、サビを1人称にしたのも頷けます。

 しかし、その手法を取ったゆえに、2番からの構成はアンコントロールな状況になってしまったのだと思います。楽曲の展開にあわせて、場当たり的に視点を都合よく切り替えているので、混乱してきます。

 こういうやり方は、わたしは乱暴だなという印象を受けますし、視点が交互するような表現ってよほど気をつけてやらないと、文章としても失敗をしているような印象を与えるので良くないです。

 小説を題材にすると銘打っているアーティストなのだから、もう少し丁寧な表現を心がけてほしいと率直に思います。


3 表現/原作との違和感

 ここからは主観的な感想になるのですが、わたしは『勇者』の歌詞は、原作に正確に沿っていない歌詞や、そもそも表現として怪しいところが散見されると感じています。


3-1 おとぎ話

まるで御伽の話

 特に強い違和感があるのが、冒頭の「まるで御伽の話」という歌詞ですね。原作だと「おとぎ話」というフレーズは3回ほど使われていますが、うち1回はヒンメルの科白で、「おとぎ話じゃない。僕達は確かに実在したんだ」というものです。

 ヒンメルが「おとぎ話じゃない」と言ってるのに、何で歌詞で「おとぎ話」って書くの?

 『勇者』=「ヒンメル」を表現する楽曲で「まるで御伽の話」という歌詞を書くのは、原作の表現意図と完全に逆行しているようにみえます。ナレーションパートだとしても、正直、これは意味がわからないです。


3-2 悪

それはかつてこの地に
影を落とした悪を

 この歌詞もかなり気になります。そもそも「悪」とか「正義」とかそういう単純すぎる表現を歌詞に用いてほしくないというのもありますが、「悪」や「正義」を表現している作品でしたっけ? フリーレンって。

 「黄金郷篇」は特にそうではないと思いますが。「悪」という単語を歌詞に書くのは軽率な印象を受けますし、原作を読めているのか疑問です。


3-3 知りたいんだ

頬を伝う涙の理由をもっと
知りたいんだ

 まぁこれは仕方ないとも思いますが、この歌詞は原作とは決定的に違う点があります。

 フリーレンは作中でいちども「知りたいんだ」という直接的な感情表現を言ったことがないです。「知りたいと思っている」や「知ろうとしたきっかけ」と言っています。細かいと思いますが、これって結構違うんですよね。

 黄金郷篇のマハトなんかも、「(人類を)知りたいと願った」と独白しています。こういう間接表現が『葬送のフリーレン』には非常に多いです。この意図がどういうものなのかを我々は把握すべきです。

 これは前述の「悪/正義」というのも同じですが、断言しないことによって生じる感覚というのもあるんですよね。『葬送のフリーレン』は、それこそ「好き/嫌い」すら明白には作品中で断言しないです。

「シュタルクのこと嫌いか?」
「なんでそんなことを聞くんですか? そう見えますか?」

4巻144ページより

 すごい遠回しな科白ですよね。そしてこれこそが『葬送のフリーレン』の魅力でもあります。

 このように「断定的に表現しない」ことが多い、さまざまな要素を「明確に切り分けない」というのが『葬送のフリーレン』のひとつの特徴です。

 「知りたいんだ」という歌詞は、楽曲的な制約上はそう書かないといけないというのは分かりますが(だって「知りたいと思っているんだ」なんて歌詞にするのはおかしいですから)、断定的な表現にしてしまっていることで『葬送のフリーレン』の魅力を削いでいるなと感じます。


3-4 残された目印

立ち寄る街で出会う 人の記憶の中に残る君は
相も変わらずお人好しで 格好つけてばかりだね
あちらこちらに作ったシンボルは
勝ち取った平和の証
それすら 未来でいつか 私が一人にならないように
あの旅を思い出せるように 残された目印

 ……うん、なんかこの歌詞は、流れ的になんかあたかもフリーレンが少女マンガのヒロインみたいになっているのでほんとやめてほしいです。

 厳密にいえば、原作を読むと、銅像についてヒンメルとフリーレンは以下のやり取りをしています。

「君が未来で一人ぼっちにならないようにするためかな。」
「何それ?」

2巻117P

 フリーレンは、ヒンメルが言っている発言の意味をよく理解していません。よってフリーレン視点の歌詞で、「私が一人にならないように」という表現を書くのは、原作とははっきり矛盾します。

 楽曲の動画もこの歌詞のところで、ヒンメルとフリーレンが背中合わせになっていたり、あまつさえ指環を映したりするので、どこの恋愛漫画の世界に迷い込んでしまったのかと失笑しそうになります。

 そういう作品じゃない。


3-5 私を変えた出会い

私を変えた出会い

 これも同じことですが、フリーレンは自分からこんなこと言わない。

 前述のとおり、フリーレンは自分の感情がどうなっているのかもいまいち分かっていないようなキャラクターです。フリーレン視点の1人称の心理描写がかなり困難なのは、もう分かりきった話ですし、フリーレンを描写するなら「行動」によりフォーカスしたほうが良いです。たとえば、

共に歩んだ旅路を辿れば
そこに君は居なくとも
きっと見つけられる

 この歌詞はとても良いと感じます。「旅路を辿っていけば見つけられる」というのは行動的な描写で、かつ間接的な心理描写にもなっています。これを「見つけられて嬉しい」とかにしてしまうと、感情表現としてダイレクトになって、フリーレンらしさを毀損することになります。


3-6 風がさらって

君の勇気をいつか 風がさらって
誰の記憶から消えてしまっても
私が未来に連れて行くから

 これは助詞に違和感がありますね。

 「風」に主格を付けたあとに「私」に主格をつけるので、視点がどこにあるのかが不明瞭になっています。視点の位置を統一して書くなら、ここの歌詞は「君の勇気がいつか/風にさらわれて」になるはずです。

 音数の制約などもあるのでまぁ仕方ないとも思いますが、こういう細かいところがわたしは気になります。


3-7 芽吹いた命

振り返るとそこにはいつでも
優しく微笑みかける 君がいるから
新たな旅の始まりは
君が守り抜いたこの地に
芽吹いた命と共に

 これも個人的にはめっちゃ気になりますね。「命の芽吹き」って言われると、普通は「赤ちゃん」を想起すると思いますが、なんかこの歌詞の流れだとあたかも…という文脈に読めるので、ちょっと気持ち悪いです。

 それ抜きにしても「芽吹いた」という言葉を曲の最後の最後にチョイスするのは、議論の余地があるところだと思います。わたしはあまり良いとは思いません。

 これはほとんど詩論的な話なので、興味のないかたは飛ばしてもらって良いです。

 歌詞全体をみると「錆びついた」とか「シンボル」とか、金属・鉱物的な印象を受けるフレーズが使われていて、自然物に対する言及は「風」くらいです。そうなると、楽曲の最後の最後に「芽吹いた」と言われても、イメージ的に「芽吹いた」と感じることができないですよね。そういう楽曲としての連続性・流れがないので、どうしても唐突に感じます。

 おそらく、この「芽吹いた」は『地面』のイメージの連関から出てきたのだと思います。YOASOBI 『勇者』の歌詞は、「旅路」「この地」「軌跡」「同じ途」「歩んだ」など、「地面」≒「旅」に関連する語句のチョイスが非常に多いです。「芽吹いた」もその流れだと思いますが、「旅」から「芽吹いた」には、意味とイメージに少し距離があります。この距離を埋めて、歌詞世界を拡大する(=繋げる)ためには、もっと事前に仕込みをしていたほうが歌詞として自然になります。

 たとえば「木陰に揺られた」とか「雨に濡れた葉が」など、あるいは「新しい季節が来た」など、フレーズを引き出すためのフレーズを事前に配置しておくと、歌詞の印象の流れはスムーズになります。

 また引き合いに出して本当に悪いとは思いますが、米津玄師はこういうところがめちゃくちゃ巧いですよね。

月明かり柳が揺れる わたしは路傍の礫
思い馳せるあなたの姿 羊を数えるように

米津玄師『月を見ていた』より

 この歌詞の「羊を数えるように」というフレーズは唐突に思えますよね。意味的にはそうです。が、これはちゃんと印象で連鎖されていて、「月」=「夜」=「眠り」=「羊を数える」という風に、イメージの連鎖からフレーズを拾えるようになっています。こういう詩の技法を使うと、歌詞世界をすごい広げることができますし、深みや想像性も出すことができるので、非常に参考になります。

 『勇者』の「芽吹いた」は、その意味で事前の仕込みがない/感じられないので、結構唐突で浮いてるように感じます。歌詞の最後はこれまで積み上げてきたイメージと同じものを配置するほうがナチュラルになる傾向があり、特に仕込みもなく新しいイメージを出してしまうと、こういうような衝突が起こるので、気をつけたいところです。

 あと、これはプラスアルファになってしまうことですが、『葬送のフリーレン』の「勇者・ヒンメル」の名前は、語源はドイツ語で「空」や「天国」を意味する語句のようです。

 楽曲名が『勇者』であるのだから、どちらかといえば「地面」ではなく「空」にもっとフィーチャーするか、あるいは対比を生むか、そういう歌詞世界をコーディネートしてほしいと感じます。まぁこれは完全にわたしの願望ですね。


まとめ

 今回は、YOASOBI 『勇者』の歌詞にフォーカスして文章を書きました。

 まぁ、結構細かいところにも言及しましたが、わたしは気になるところが散見される歌詞だなと思いました。

 特に、直接的な表現ですよね。『勇者』という楽曲名の歌詞に「勇者」とそのまま、しかも近い距離で2回も書いているのはもったいなすぎます。もっと遠回しな表現にしたほうが、曲により深みが出るはずです。『葬送のフリーレン』のような、ただ物語が面白いだけではない、色々な魅力を感じることができるような作品のタイアップ曲なら、尚更ではないかとわたしは思います。

 YOASOBI の楽曲を、より良い体験で受容できることを、わたしは望んでいます。


詩を書くひと。押韻の研究とかをしてる。(@sagishi0) https://yasumi-sha.booth.pm/