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日本に西洋的な「憲法」を根付かせる必要はあるのか?小室直樹さんの動画を見て

小室直樹さんは私が最も尊敬する学者の一人だ。『痛快!憲法学』(現在は『憲法原論』として出版されている)は、私の世界理解の軸となる歴史、政治、経済を包括した一つの世界の見通しを与えてくれた。その小室直樹さん生前の動画が、ビデオニュース・ドットコムで上がっていたので視聴した。2時間まるまる小室さんが話している動画。なんと貴重な動画だろうか。必見。

まだざっくり通して一度見ただけだが、小室さんはあまり語らないので「なるほど、これがわかった」というものは少なかった。私が小室さんの著作をほとんど読んでいるということもあるだろうが。しかし、憲法とは何なのかについて考えさせられた。

憲法は、絶対的な力を持つ政府を縛るという経緯で生まれた、名宛人政府の法である。だから一般人は憲法に拘束されないし、破ることもできない。

動画内で、弟子である宮台真司さんと議論している。憲法の立憲意思は西洋の歴史に基づくものであり、日本は個人が政府に不当に搾取され暴力を受けた歴史もない。

そんな中で、そのような憲法の核心的な無理解を基に日本を批判することは意味があるのか?そこまで明確には言っていなかったが、そういう議論もありうることを示唆している。

この問題を深堀りしたい。

私がここで思ったのは、どこを出発点に考えるかだと思う。

動画内で、小室さんも宮台さんも最終目的を語っていないので、収拾があまりついていない。ざっくりと日本のGDP或いはGDPpercapitaや国際的な立ち位置などを包括した国力みたいなものが下がっているので、これを上げなければならないというような共通認識で話しているようんみえた。

しかし、実際どうなんだろうか。

もしそのような指標を明確に追い求めるなら、最適解は決まってくる気がする。しかし、今の時代において経済は言わずもがな、国力なども現代の主役である個人にとっては手段に過ぎず目的ではない。

多様化した個人の時代において、何が善かは人それぞれで共通の善を措定することは難しい。

しかし、あえて全員で目指すべきものがあるなら、「自由」だろう。「人のことは分からないから、自分に危害を与えない限り自由を認める」という発想だ。

そこを起点に考えると、西洋的な「憲法」を日本に根づかせる必要があるのかの答えが見えてくるかもしれない。別途考察するか。



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