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いい違和感と悪い違和感があるとしたら

マイケルジャクソンのMAN IN THE MIRROR という曲の日本語訳を最近知った。世界を変えたいならまずは自分から。社会は自分を映す鏡。ありふれたことばに聞こえる。この言葉を本当に言葉そのままの意味で本気で受け止めたら死んでしまう人が多いのではないだろうか?世界を見渡して「それがあなただよ」と言われていることに等しいのだから。仮に自分が社会に違和感を感じているとしよう。その時、私は自分自身に違和感を感じているということになる。そこを見つめて、自分自身を変えることが世界を変えることになると思う。「make a differense(違いを生む)」「make a sense(違いを見出す)」変化を生むには違いに気づく必要がある。そしてbetterな選択肢を見つけるには、違いにある基準を設ける必要がある。その当てるモノサシが見当違いのものなら判断を誤る。

私は中学校のテニス部を外部コーチとして指導している。体のことに関しては比較的良し悪しが分かりやすい。理屈は通用しないからだ。無理がなく効率的であれば効果的な動きで心地が良いものとなる。動けば動くほど楽になるし、動くことが気持ちよくもっと動きたくなる。物心つくまでの子供が、夢中になって遊んでいる感じが良い動きとしてイメージしやすいだろう。教育が入ってきて正誤をつけられ型にはめられると、このような内から出た欲求から積み上げられた動きは鳴りを潜める。外からの物に慣れ親しんで馴染んでいくと、あたかもそれが自然なものとして感じられるようになっていく。その時点で「動きたいように動け」と言われても、どうしたら「いい」のか分からないという思考になる。型がないことに不安を覚えるのだと思う。「これはこうやってやるんですよ」「今のは違うよ」「今のは良くできたね」という学習方法しか受け付けなくなる。

しかし、その人に全くモノサシがないかというとそんなことはない。ある動きでAとBのバリエーションをやってみて「どっちが好み?」と聞くと、結構応えは返ってくる。違うことをさせてみてその差異に注意を向けさせることが大切だと思う。あるいは、何か興味を惹くものを提供して、到達方法は提示しない。そうすると、失敗経験を否定され続けてきた子供でなければ、創意工夫や試行錯誤をし始める。そして成功する選択肢を偶然でもなんでもいいから引き当てた子は、自分の能力というより「やってみたら、なんとかなることもある」という自信をひとつ積み重ねる。その時の失敗経験は、運動学習的にいうと「長期抑制」といって「失敗したパターンを繰り返さない」学習を実はしている。自転車で転ばなくなるのもそれだ。つまり学習には失敗は必要不可欠なのだ。

社会への違和感に話を戻そう。具体的にしていくと、特定の〇〇だと感じる人やコミュニティへのものと、社会の構造・システムへのそれがあるように思う。実際のところこれらふたつは関係し合うので切り離して考えるのは難しいように思う。主張したいのは皆が安全を得たいという前提で、それぞれ違った人生経験をしてきて違った価値観をもった人たちが、それぞれの思うベストな選択肢を取っているだけだということだ。そして生き物というのは本能的に変化を嫌う。というのは生き残っているということはそれまでの生存戦略が上手くいったからだという判断をする。変化した結果、悪化することを可能性として想定する。そんなリスクを負うぐらいなら現状を維持したほうがマシだという本能と、「もう無理!」という違和感を天秤にかけた時どちらに傾くかという話だ。仮に上手くいった生存戦略が不自然だったとしよう。不自然な戦略が当たり前なレベルで染みついた後、自然な戦略に変えた場合、違和感が出る。それはまるでダイエットに失敗する人たちのようだ。砂糖や炭水化物を制限した時の抵抗感に似ている。例え話から脱線して申し訳ないが、タンパク質や咀嚼、質のいい油に置き換える、動きによるセロトニンやドーパミンの分泌で、依存からの離脱症状を乗り越える(脱感作)必要がある。自分を変えるというのは、小さな変化を拾っていくことが成功のコツかもしれない。大きな変化を起こすのは大変だ。時間もかかるし、仲間やサポートも必要になるだろう。個人的に、本当の自分などいないと思いたい。どこかにある正解を探している感じがするからだ。そうではなくズレた時の違和感を拾えるようになりたい。小さな違いに気づく、違和感を拾っていくことが、自分を見つめ続けるということだと思う。

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