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言葉遊び

心に響く文章講座というものを受けている。文章を綴ることを通じて、その奥に流れる己の本流にふれ、普遍的な心理の源流まで通じれば多くの人にも届く。そんな感じだ。テクニックや法則はあるが、それは本流・源流に近づくための手段だ。言葉という抽象概念を使って、言葉だけでは表しきれないリアルをどう表現するか?とても難しい。そしてその作業は自分の奥底に触れる作業だ。とてもエネルギーがいる。

話は変わるが、氣とか縁とか倖とか學とか旧字を好んで使う人がいる。倖という漢字の語源ついて調べてみた。意味として①さいわい(ありがたい事、幸せ)②「へつらう(人の気に入るように振る舞う)」③「親しむ」、「お気に入り」④「こいねがう(強く願う)」、「願い望む」とあった。気になって幸せという漢字の語源も調べてみた。幸せは象形文字で「『手かせ』の象形でさいわいにも手かせをはめられるのを免れた事を意味」するそうだ。

手かせから逃れてよかった。人の気に入るように諂う。そうすると「こいねがう」も乞い願う、請い願うどちらの漢字が合うだろうなどと考えてしまう。さらには誰が漢字をつくったのか?気になってきた。調べると、漢字は中国で黄河時代(紀元前8000~1400年ぐらい)に発祥した表記文字。 四大文明で使用された古代文字のうち、現用される唯一の文字体系だそう。漢字を発明したのは、蒼頡(そうけつ)という古代中国の伝説上の人物とされる。蒼頡には目が四つあり、鋭い観察力を持っていたらしい。彼は足跡を見ればそれがどんな動物か分かったので、形によって概念を表現し、記録して人々に伝えることができると気付いた。そこから漢字が生まれたとのこと。古書は、蒼頡が漢字を発明した時、天から穀物が降ってきて、鬼は夜、声を上げて泣いた、と伝えられている。

私は言葉を作ると現象が起こったというのは示唆的だなと思った。言語化によって現象を固定化するイメージが湧いた。そして「はじめに言葉ありき」というフレーズが次に思い浮かんだ。調べてみた。聖書にあるらしい。「はじめに言葉ありき」という部分の、ギリシャ語による原文を下記に記す。

Εν αρχηι ην ο Λόγος
(En arkhēi ēn ho logos、エン・アルケー・エーン・ホ・ロゴス)

聖書

「アルケーはロゴスなり」。「アルケー」の意味は、万物の始源・宇宙の根源的原理。「ロゴス」の意味は、真実、真理、論理、理性、概念、調和・統一のある法則など。言葉だけで見るとトートロジー(同じことを繰り返しているだけ)だ。「原理は真理です」と言われたところでなんの意味も無い。キリスト教において使われる場合は、ロゴス=キリスト (世界を構成する論理としてのイエス・キリスト、または神の言葉) なのだそう。キリストの言葉が宇宙の原理ですよ。ということになる。この言葉だけ聞くと、これも意味の無い主張に思える。キリストの言葉は絶対ですよと言いたいのだろうが、文脈がわからない限り「何言ってんだコイツ?」と私は思ってしまう。一部では「はじめに言葉ありき」の解釈のとして、言葉があることで物事を認識できる、だから言葉は大事だよと言いたい人が一定数いるらしい。現象に抽象的概念を当てはめて固定化、伝えることができるという意味では賛成する。しかし現象の前に概念(言葉)が先にあるというのは全くもって反対だ。

話を「倖」の字に戻す。「最倖」という言葉を、不特定多数に向けての文章で使う人がいる。幸せの語源は「手枷をかけられるのを免れてラッキー」だ。それにわざわざ「いとへん」を付けて、人にへつらう意味を付与する意図はなんなのだろう?どこかの誰かがつけた他の意図があるなら注釈を書いておいてほしい。注釈がなければ「知っている人にしか分からない言葉を私は使っているんですよ、言葉にこだわっているんですよ、私?」というのを自分は嗅ぎ取る。あるいは仲間内で同じ言葉を使って帰属欲求を満たしあっているか。文章講座で「すべて文章には表れている。バレバレだ。」と教わった。人のことを言える立場では無いが、せめて書いた文章を声に出して読み直すことぐらいはしようと思う。

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