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成長教(狂)

成長することがいいこと。そんな押し付けに違和感を抱いている。成長教というワードがとあるコラムの中で出てきた。成長をよしとする考えはどこからくるのだろうか?思いついたのは仏教の四苦。生老病死。思い通りに生きられないこと、衰え病み死ぬ。それが避けられない苦しみ。苦しみは執着から生まれる。ざっくりこんな理解だ。仏教は執着を捨てるといいよと言っているが、私はそれは極論だと思っている。期待値の修正が肝要だというのが持論だ。期待というのは予測と言い換えることができる。予測というのは予め測る、つまり予想することなので現実と照らし合わせて修正するというのが前提だと思っている。予測との誤差を減らしていく作業が学習だ。一切の欲求がなくなるとしたらそれは生物では無いように感じる。生き物というのは遺伝子を遺すために、自己を存続させようとする。生殖と生存本能。諸々の行動はそこからの派生だ。自己実現なんていうのは余暇になる人の方が大半なのではないだろうか?中には命を賭して何かに没頭する人もごく一部いるとは思う。

成長に話を戻す。成長とは何だろうか?企業でいえば経済成長、つまり利益の増大だ。前年度100%を超える業績を上げるか利益率を上げる、生産性をあげるか。右肩上がりを期待するが、命というのは右肩上がりするようにはできていない。必ず衰え死ぬ。では精神的な成長はどうだろう?限界はないかもしれない。だが、際限なく上を求め続けることが果たしていいのだろうか?成長成長と言いあっている集団の中には、唱えあっている集団の中で安心することが目的になっているように感じるところがある。つまり「言いたいだけ」の人たちだ。「成長しようぜ!」と言い合うのが手段で、仲間意識を感じて安心するというのが目的だ。そして、意識高い系の集団に帰属することによる優越感も感じたいのだろう。そういう人たちはだいたいポジティブ思考を是としている傾向にある。私はそういう人たちを見ると、「自分の感情が無い、ネガティブな感情を無かったことにしてフタをしている」という風に捉える。「頑張る」自分に何かを強いているくせに、「顔張る」といって、美化をする。その言っていることとやっていることの違い、醸し出すフタから漏れる負の匂いに怖気を催す。

書きながらある人を思い出した。石をキャリーケースで持ち歩き、高額教材の音声をリピートで聞きながら移動し、朝起きたら何故か分からないが涙が溢れる、と言ったことを自慢げに話す人だった。信者と不倫をして家庭崩壊をして、ほとんどの人がその人から去っていった。多分今も自分を麻痺させたい人同士で集まっているのだろうと思う。安心を感じるために、感覚を遮断する。とある心理系の何かで「とある感情にフタをすると、それ以外の感情にもフタをして感じにくくなる」と聞いた。無理に何かに狂っているという人は、感情をないものにしている、乖離しているように思う。その手段は馬の目の前にぶら下げた人参のように、走り続けることでしか安心もどきを感じられない大変な人だと思う。疲れ切って走れなくなるまで、あるいは亡くなるまで同志が側にいてくれることを祈るばかりだ。

イカロスというギリシャ神話の登場人物は、偽りの蝋でできた羽で天を目指し、太陽の熱で羽が溶け墜落して死んだ。恐ろしいのは、それが良いことと信じて恍惚としていることだ。現実から離れて理想に生きる。現実を見ないで済むのは四苦に対する一つの解決策に映るのかもしれない。分不相応な概念を盲信して火傷するよりも、シンプルに①「集団内で生きていきたい」、②「自分の欲求に素直でいたい」というのを両立する「学習」をした方がいいと思う。

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