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あの夏、たしかにアフロは僕らのそばにいた 中編

1クラス45人、1学年16クラス、卒業までの3年間一度も顔を合わさないヤツもたくさんいる、いわゆるマンモス校って呼ばれていた狭い中学校に無理やり押し込まれた「僕」が、だらだらと無為に過ごした3年間のエピソード、いわゆる「プレイバック80'エッセイ」の第2話。ちなみにほぼノンフィクション、多少盛ってはいるけれど。

前回、僕とマッツンが郷土研究部に入るまでの全然たいしたことないプロローグ的な話はこちら▼

あの夏、たしかにアフロは僕らのそばにいた 前編



僕とマッツン、部活動を開始する

僕とマッツンが郷土研究部に入部して1ヶ月ほどが過ぎた。クラブは文化祭前のような特別なことがない限り週に2日出ればいい。普段の部活動は、地元堺市の歴史を調べて、いくつかたまるとまとめて不定期に新聞のようなものを作ったりしていた。思えばこの時期に一気に歴史の雑学的な知識が増えたんじゃないだろうか、地元限定という条件がつくけれど。

例えば前方後円墳で有名な仁徳天皇陵について資料室や図書室で調べ物をしたりするんだけれど、「御陵名の百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)の名前の由来やべぇな ※」とか、「百舌鳥は、もずって読むけど、3文字の漢字に対して読みは2文字ってエモいやん」とか(エモい、は当時の言葉としては存在していないだろうけど)。まあこんな感じで大半は雑談していたような気もする。雑談のついでに調べ事をする、このゆるさがよかったのかも知れない。N先生も特にあれこれ言わなかったし。

※ 仁徳天皇陵を造成中に工事の人たちに向かって鹿が突進してきたが、間一髪ぶつかるというところで鹿の耳の中からモズが飛び出してきて、そのまま鹿は倒れて絶命した。モズの勇気を讃えてこの地を百舌鳥耳原と呼ぶようになった、という話だけれど、ちょっとちょっと鹿がかわいそうじゃないか...。

さて、入部してから1ヶ月ほど経って、かれこれ7、8回は部活動したけれど、例のちょっとヤンキーっぽいK先輩の姿は2回しか見なかった。それも途中からふらっとやってきて知らない間にいなくなる、ゆるい部活のなかでさらにゆるいポジションの人だった。でも僕は数日後に、そのゆるいと思っていたK先輩のひとことで凍りつくことになる。

K先輩はやっぱりヤバい人なのか

その日、僕は放課後に一人で資料室に向かっていた。途中で2年生のクラスの前を通った時に、廊下でたむろしているK先輩に出会った。K先輩のほかには、ボンタンをはいためっちゃヤンキーボーイズのふたりがいたんだけど、K先輩は彼らに対して「俺は、きょうけんやねんけどな」ってセリフを吐いたのが聞こえてきた。ヤンキーボーイズは「お前、きょうけんやったんか」と笑いながら返していたけれど、K先輩は「お前ら、きょうけんをナメんなよ」って笑顔で返していた。

僕は震えた...。

僕はちょっと緊張しながら「自らを狂犬とカミングアウトしたK先輩」の前を通るときに「こ、こんにちは」とあいさつすると、K先輩は「おぅ」と小さい声で返事をしてくれた。めっちゃヤンキーボーイズがこっちをちらっとみたので、僕は頭を下げてあいさつして、たぶん極度の緊張からか右手と右足を同時に出す格好でギシギシ歩いて部室に向かった。

「狂犬ゆうてた、狂犬ゆうてた...」
人は極度に緊張すると同じセリフを繰り返すらしい。僕は右手右足と左手左足をセットで繰り出すという独特のポーズでギシギシと資料室にたどり着いた。資料室には先に着いていたマッツンがいたので、僕はさっき聞いたK先輩の「俺は狂犬やねんけどな」の話をした。

話を聞いたマッツンは「やっちゃん慌てんなって、俺らもきょうけんやから」と笑いながら言った。「???」となる僕にマッツンは「K先輩はクラブのことを言ったんやって、郷土研究部のことを郷研って。やっちゃんは郷研って言わへんのか」...マッツンは「何をいまさら」感を醸し出しつつ僕にそう言った。

僕は震えた....。

「狂犬じゃなくて郷研、狂犬じゃなくて郷研...」
どうやら人はほっとしたり、恥ずかしくてたまらないとき同じセリフを繰り返すらしい。


次回、僕とマッツンの前にひとりのアフロが舞い降りる。

あの夏、アフロはたしかに僕らのそばにいた 後編

まだつづく...