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「教え込む教育」から「引き出す教育」へ

学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。

これは、福沢諭吉の著作『文明教育論』の中の一節です。

明治時代がはじまり、欧米のさまざまな知見を取り入れるで、“education”という英語をどう日本語に訳すかという論争が巻き起こりました。
日本の近代教育を設計した三傑による主張は次のとおりです。

大久保利通は“education”に「教化」という日本語をあてました。一方、福沢は「発育」を主張しますが、受け入れられません。最終的には、森有礼が提案した「教育」で落ち着き、その訳語が現在まで使われてきています。

福沢は、先に紹介した著作の中で「教育の文字ははなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり」と改めて反論しています。

その後、世界一勤勉な労働者を育成し、高い技術力を背景に、世界的にも豊かな国へと発展した日本の歴史を見る限り、どうやら「教え込む教育」のほうに分があったようです。
物質的な豊かさを追求する“society3.0”においは、知識注入・伝達型の教育が極めて有効に働きました。

しかし、21世紀に入ってルールはすべて書き換わってしまいました。
精神的な豊かさが求められる“society5.0”においては、「教え込む教育」がもはや現実的でないことに、誰もが肌感覚として気づいているのではないでしょうか。

 「GO TO STUDY」「オンラインDAY」「オフィスアワー」「寺子屋学習会」「地域開放型学校祭」・・・。
こうした新しい取組も含め、生徒の主体性を重視し知的好奇心をくすぐる、清明版「引き出す教育」の推進に、今後も努めて参ります。

京都府立清明高等学校PTA会報『想』Vol.14(2021/9)より


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