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親父とオカンとオレ 3 〜ソロバンで怒られた話〜

 夫婦喧嘩は犬も食わないというが、親父が癇癪をおこし一方的にオカンへ怒りつけ、それをオカンは

「ハイ、ハイ」

と聞き流す。そんな感じの喧嘩というか、かなり激しめの癇癪は、日課のように起こっていた。

 瞬間湯沸かし器のごとく、癇癪を繰り返す親父はご近所の名物でもあった。

 子供の教育はビンタが基本。悪い事をしたら怒るよりも先に平手が顔や頭に飛んできた。

 小学生の頃はそれが当たり前だと思っていたから、つらいとかしんどいと言う気持ちはなかった。

 ある日、何かをやらかして、姉か弟を泣かしたのだろう。
 親父の強烈な鉄拳で、僕はぶっ飛び、頭で居間の窓ガラスが割れた。

 玄関のように使っていたその窓は、次の日、ガムテープでイギリスの国旗の様になっていた。


 姉貴について書こう。姉貴が小学校の高学年の頃だったと思う。算数の問題を家で親父に教えてもらっていた。

 姉貴は算数が苦手でテストの成績も悪かった。

 そこに大工だから算数は得意という、訳の分からない解釈で、あの癇癪親父がやってきた。そして長らく姉貴を教えていた。

 恐らく自分ではその問題を分かっているのだが、教えることに関して素人の親父は

「なんでこんな問題も分からんのや」

と平手で頭を一発叩く。
 泣きながら問題を解く姉貴を見て、絶対に自分は親父には教えてもらわないと心に誓った。

 第一子の娘として生まれた姉貴は、親父にとって、それでも優しく育てられたのだと思う。
 姉貴が中学生になった頃、親父がCDラジカセのデッキを買ってきた。

 そしてCDは前川清のアルバム1枚。中の島ブルースなどの名曲が入っていた。

 何故それを中学生の娘に聴かせたかったのか、はたまた自分が聴きたかっただけなのか。

 二人でレコード屋に行き、一緒に選んできた物らしい。

 ともかく、姉貴の1番最初に買ったアルバムは、前川清という事になる。


 弱小剣道部の主将。姉貴は小学校で始めた剣道を高校3年で引退するまで続けた。

 剣の道での成績はいまいち残せなかったが、チーム内の結束は強く、中学の剣道部仲間が大人になってからも家によく遊びに来ていたのを覚えている。

 友情というか大切な仲間を残す事は出来たようだ。


 清重そろばん塾という、姉貴をはじめ兄弟3人ともが通った塾があった。

 確か週4日、月火木金曜の放課後に立ち寄って、そろばんを習った。

 ここは主に女の先生が1人で数多くの子供たちを見ている。
 この塾では基本的に自分で問題を解き、その答え合わせを近くで終わった者同士が互いに○×をつけ合うといった形をとっていた。

 先生は解らない問題や悩んでいる子には優しく教えていたが、ズルをする子供には厳しかった。

 井本という4階建の団地に住む、やんちゃな同級生がいた。
 当時僕は小学5年くらいで周りの友達はドラクエというゲームに夢中で、誰が先にクリアするのか競いあっていた。

 家にファミコンのない僕は、学校が終わるとソロバンではなく、井本の家に直行した。そして2人でせっせとドラクエのレベル上げに没頭していた。

 しかしソロバンを休む訳には行かず、突発的に編み出した技がある。
 そもそも、清重ソロバン塾には性善説で、互いの答え合わせを信用していた。

 俺と井本は、答えの桁数だけ合わせて、適当な数字をサッと書き
「終わったので答え合わせしまーす」
と、しれっとした顔で、お互いの解答用紙に⚪︎をつけた。
「正解したので帰りまーす」
と通常は、1時間位かかる所をたったの5分で終わらせていた。

 そしてダッシュでまた井本の家に戻り、ドラクエのゲームをする。これを繰り返した。

 二週間くらいこの方法を続けていた。ある日、
「正解したので帰りまーす」
と2人が言うと、先生が
「ちょっと、拓ちゃんとのぶ君(井本)の解答を持って来なさい」

 穴があれば入りたい。この時程、そう思ったことはない。みんなの前でめちゃくちゃ怒られた。

「何これ!全然違うじゃない」 
怒るとヒステリックな先生は、白目をむいて甲高い声で僕らを叱ってくれた。

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