見出し画像

楽譜のお勉強【60】ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル『エステル』

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(Georg Friedrich Händel, 1685-1759)は後期バロック音楽の頂点を示す傑作を数多く残した、西洋音楽史上傑出した作曲家の一人です。イギリスで長く活動したことから、英語読みでジョージ・フレデリック・ハンドルとも呼ばれます。とりわけたくさんのオペラとオラトリオを作曲したことが重要な功績です。そのオラトリオの中で、日本でも頻繁に耳にするハレルヤ・コーラスを含む『メサイア』が有名ですが、『メサイア』はヘンデルのオラトリオの中では極めて異色の作品でもあります。聖書の物語の筋を追う形式を取っておらず、新約聖書の内容を扱ったヘンデルのオラトリオは、この他には『テオドーラ』だけです。多くのオラトリオは旧約聖書の物語を題材としています。その中から本日は『エステル』(»Esther«, HWV, 50a, 1718, new version 1732)の1718年版を読んでみたいと思います。

1730年代末からヘンデルはオラトリオを積極的に発表するようになります。オラトリオとは大規模な宗教的声楽作品で、独唱群、合唱、オーケストラによって演奏されるものが多く、歌詞には物語性が強く、叙事的なものが多いです。レチタティーヴォやアリア・ダ・カーポ、合唱などからなるため、物語性と相まってオペラとの共通点が見られます。しかし演技をせず、舞台上演を意図した衣装なども用いません。

『エステル』は旧約聖書の「エステル記」の物語です。ペルシャ王の后となったユダヤ人女性エステルの活躍を描いています。ヘンデルの『エステル』に登場する人物は、アハシュエロス(ペルシャ王・クセルクセス1世、アルト・カストラート)、エステル(アハシュエロスの后、ソプラノ)、モルデカイ(エステルの養父、アルト)、ハマン(ペルシャの大臣、バス)、イスラエル人女性(ソプラノ)、3人のイスラエル人(テノール、テノール、アルト)、ハブドナ(テノール)、ペルシャの役人(テノール)です。物語は、以下の通りです。エステルがペルシャの王妃となったことで虜囚の身のユダヤ人が解放される希望を持つも、国内のユダヤ人を全滅させる勅令が発布される。エステルは法を犯して王に直接勅令の取り下げを交渉しにいく。勅令はユダヤ人を恨む大臣ハマンによって企てられた奸計であったことが露見し、ハマンは死刑になる。イスラエル人たちは喜びの合唱を歌う、といった内容です。合唱と管弦楽を伴います。管弦楽の編成はオーボエ、ファゴット x 2、トランペット、ホルン x 2、第1および第2ヴァイオリン、ヴィオラ、通奏低音、ハープです。ハープはヘンデルが得意とした楽器の一つで、世界最初のハープ協奏曲を作曲したのはヘンデルだと言われています。ただ、今回ご紹介する動画ではハープではなくハルモニウムが用いられています。

1718年版の『エステル』は実はオラトリオとして作曲されておらず、仮面劇として作曲されました。1732年版の『エステル』ではいくつか曲が加えられたのですが、過去作の再作曲作品などが多く、演奏会用作品としての規模がちょうど良いこともあって、今日では1718年版を仮面劇ではなくオラトリオとして上演することが増えているようです。仮面劇が上演されることは今日ほとんどありません。

序曲はイタリア風の「シンフォニア」です。バロック時代のオペラやオラトリオは序曲から始まりますが、大きくフランス風とイタリア風に分かれます。「序曲」と呼ぶ時には通常フランス風を指し、緩・急の2部分からなる構成であるのに対し、イタリア風の序曲は「シンフォニア」と呼ばれることが多く、小規模な3つの楽章を取ることが多いです。古典派以降の「シンフォニア」すなわち「交響曲」とは区別されるものです。3つの楽章は通常急・緩・急の構成が多いですが、『エステル』の「シンフォニア」は、緩・緩・急という独特な構成を持っています。フランス風序曲ではゆっくりした冒頭に付点のリズムが用いられることが多いのですが、『エステル』の冒頭の緩徐楽章も付点のリズムで、一見フランス風序曲のようです。ただ、これに続く楽章がさらに非常にゆっくりしたものになるので、ハッとしたように急・緩・急の構成であるかのような錯覚が起こります。ゆっくり始まったと思ってフランス風を期待していると、実はイタリア風だったというような、構成上の工夫が巧みで、いろいろな表現を試している様子が窺えます。

(シンフォニア冒頭)

最初はハマンと脇役のハブドナのレチタティーヴォから始まります。レチタティーヴォに続いて大臣ハマンのアリアが歌われます。最初のアリアはシンフォニアの第1楽章と同様に付点のリズムを効かせて展開します。短いアリアで、アリア・ダ・カーポ(第2部分を演奏した後、冒頭に戻って繰り返し、A-B-Aの形式を構成する)ではなく再現部での装飾や歌い回しを個々人が工夫する技巧的なものではありません。短いアリアの後、同じ歌詞を合唱が歌って第1場を締めくくります。

続いてイスラエル人たちのアリアが披露されます。アリアをレチタティーヴォの後で披露される流れが自然であるため、動画ではヘンデルの楽譜の構成を少し変更しています。第1イスラエル人のアリアのあと合唱、そのあと第2イスラエル人のアリアがすぐに続き、アリアの後でレチタティーヴォという構成になっていて独創的ですが、独唱者の見せ場をすっきりと作る工夫として動画の演奏では順番に変更を加えたのでしょう。独唱者を区切るために合唱の部分を最挿入したりもしています。第1イスラエル人のアリアは、伴奏のピツィカートが特徴的で美しいです。バロックの弦楽器のピツィカートは音質も優しく、趣があります。第2イスラエル人のアリアは本来ハープが伴奏で活躍するのですが、ここではハルモニウムが用いられています。16ビートで刻まれる快活な音型は、オルガンの音色でも面白く聴きました。ただ、この前のアリアのピツィカートの音色を撥弦楽器であるハープの音色に受け継いでもらう工夫は動画の演奏では再現されないので、興味のある方は他の演奏を聴いてみても良いと思います。YouTubeにもあります。ただ、歌が上手だと感じる歌手が多いと感じたので今回の動画にしました。第3イスラエル人は男性アルト(今日のカウンターテナー)で、アリアの前に歌うレチタティーヴォがアコンパニャート(通奏低音のみでなく、管弦楽伴奏によるレチタティーヴォ)になっていて、迫力があります。アリアも短調になっていて、悲痛で、短2度を行き来する歌い始めの音型が悩ましく表現力があります。イスラエル人のアリアはどれもダ・カーポ・アリアですから、A部分の再現で装飾的に最初と違う歌い方をします。この第3イスラエル人を歌っている方のダ・カーポはとりわけ再現部の歌い回しが素晴らしいと感じました。作曲を勉強したことがある方かなと思うような、反行型などの使い方が秀逸で、演奏は作曲行為を完成させると思えるものでした。

次にモルデカイとエステルのレチタティーヴォからモルデカイのアリアに続きます。そしてエステルのアリア。いずれも後半にも見せ場があるため、ややシンプルなアリアになっています。合唱などを挟み、エステルとアハシュエロスの二重唱に続きます。二重唱はシンプルなもので、オクターブ下行のモチーフから開始する伴奏にインパクトがあります。オラトリオの中で二重唱はそれほど頻繁に出てくるものではなく、ヘンデルが作品の充実を図るためにいろいろな工夫をしていることが分かります。二重唱に続いてアハシュエロスのアリアになります。前出のエステルのアリアと拍子が同じ3/8拍子で、主役級二人のアリアの対応が見られます。エステルが悲劇を回避するために思い詰めてト短調で歌ったのに対し、王は堂々とヘ長調で歌います。エステルのレチタティーヴォを挟んでペルシャ王のアリアが再び歌われます。こちらはテンポ感があり、やや技巧的、器楽的な音型を含むアリアになっています。このアリアに続く合唱(楽譜では16番)が秀逸です。三連符で跳躍を多く含む音型のオーケストラが激しい不安を表現します。ここまで全体的に合唱は対位法的にもシンプルで、和声的に場面をまとめる役割が多かったのですが、ここでは各声部が単独で長く旋律を歌ったり、二重唱的扱いで歌ったり、保続音を多用したり、後半に向けて対位法的充実を図ったりして、ドラマチックな展開を持っています。この後、第3イスラエル人のアリオーソが続きます。

大きな合唱やハマンのアコンパニャートを挟み、エステルのアリアが歌われます。このアリアはオーボエとヴァイオリンの対位法処方が秀逸で、エステルの歌はオーボエのパートと親和性があります。オーボエとヴァイオリンはユニゾンになったり和声的になったり対位法的になったりして非常に充実しています。音の動きが大きいので素材が多く、ダ・カーポによる回帰で歌手の技量の見せ所です。

(歌とオーボエのユニゾンがヴァイオリンと対位法を成す)

王のレチタティーヴォ、ハマンのアリアを経て最後に長大な合唱と二重唱のフィナーレがあります。二重唱はエステルとモルデカイによるもので、イスラエル人が助かったことを神に感謝して祝うのです。荘厳な合唱から始まります。コラール的に全体で合唱してから、対位法的展開が始まります。ここは合唱の扱いが非常に技巧的で、大変細かな動きと保続音、対旋律をうまく組み合わせて作曲されています。合唱が声部分裂を潜めて集まってくると、弦楽器群の動きが活発になり盛り上がってきます。一旦盛り上がりが収まると長大なメリスマ(1音節に複数の音を当てて歌う唱法)がアルトに現れるのですが、’sound’という歌詞に対し、実に7小節にわたり37回(トリル音を除く)音程が変わる旋律が歌われます。「全ての舌よ、エホバの神の栄光を鳴り響かせよ」という歌詞の一部です。合唱が収まり、二重唱が歌われます。素直に模倣を繰り返す二重唱ですが、合唱と交互に現れて効果的です。

(長大なメリスマ唱)

ヘンデルの作曲技法はかなり経済的だと思います。繰り返しも多く、とりわけ複雑な和音設定や対位法なども少ない。しかし、表現力が強い音型や楽器法を惜しみなく使い、パワフルな音楽的豊穣があります。7度音程の跳躍によるゼクエンツの歌唱、長大なメリスマ、声楽とさまざまに呼応する管弦楽法等、『エステル』には多くの聴きどころがありました。私はヘンデルの音楽をたくさん勉強してきたわけではありません。同時代の作曲家で言うと、どうしても大バッハの見事な対位法に目が行くことが多かったのです。ヘンデルのオペラの中で最も素晴らしいものの一つと私が考えているものに『ロデリンダ』があります。ヘンデルには珍しく半音階的な進行なども現れる表現力に満ちた作品です。他にも読んでみると、いろいろな作品で作曲上の工夫が縦横に凝らされており、発見の多い作曲家です。『エステル』にも勉強になる点がたくさんありました。ヘンデルの音楽の魅力を再確認しました。

作曲活動、執筆活動のサポートをしていただけると励みになります。よろしくお願いいたします。