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楽譜のお勉強【番外編】レオシュ・ヤナーチェク『カプリッチョ』(後編)

先週の投稿に引き続き、ヤナーチェク作曲『カプリッチョ』のベーレンライター全集版の序文を翻訳しました。

現代音楽協会の財政問題により、計画されていたカプリッチョの初演が滞った。 9月、ホルマンはヤナーチェクに、1928年3月2日にプラハでチェコスロバキア戦争傷病兵組織が主催する自身のコンサートに初演を含める可能性があると伝えた。ヤナーチェクはこれに同意し、1927年10月4日の手紙で最初の2本のトロンボーンについてバルブ付きのトロンボーンが必要であることを言及した。 さらに、1928 年 1月24日、彼はポストカードに次のような重要なメモを追加した。 「テナーチューバをホルンに変更しても大丈夫です。この場合、パートを変ロ長調からヘ長調に移調してください。」

二人のアーティストは、1928年2月6日にブルノのヤナーチェクのアパートでこの作品の最初の非公開公聴会を開催することにした。ホルマンはこの時の訪問について次のように書いている。
「私は彼のガーデンハウスの前に着くとすぐに、マエストロが私の片足踊りをどのように判断するかという絶望的な恐怖に襲われました。 その時、私は彼の声でハッとしました。『どうぞ入ってください、はやく聞きたいです。』そしてしばらくして、私たち二人はピアノの前に座りました。ヤナーチェクは注意深く耳を傾けました。作品の最後の小節が鳴り終わると、彼は『あなたはブルノでもこの曲を演奏することになるでしょう』と簡潔に言いました。それから彼は私を小さな机に案内し、ブラックコーヒーを飲みながら、プラハで予定されている最初の公演について話し合いました。彼は私の質問に答え、パフォーマンスに関する希望を伝えてきました。[…] 私は彼に尋ねました『マスター、管楽器とピアノだけ、そして特にこれらの楽器を選んだアイデアはどのようにして思いついたのですか?』ヤナーチェクはこう答えました。『昔、軍楽隊のアンサンブルのために何か曲を書いてほしいと頼まれたのですが、その曲を考えていたとき、突然こちらの依頼を思い出したので、思いつきました。管楽器とピアノを組み合わせて、あなたと一緒に吹奏楽を。[…]』。」
ヤナーチェクは1928年2月6日、ホルマンの演奏に満足していた。彼はカミラ・ステスローヴァに宛てた手紙の中でそう述べており、その中で彼はしばしばこの曲を『Vzdor』(反抗)と呼び、片手でピアノを弾くことを片足で踊ることに喩えていた。

カプリッチョの初演の準備は、すでに開始していたプラハ国立劇場でのオペラ『マクロプーロス事件』(«Věc Makropulos»)の初演(1928年3月1日、指揮オタカー・オストルチル)の最終リハーサルと重なっていました。ヤナーチェクは1928年2月22日にはすでにリハーサルのためにプラハに来ていた。指揮者のヤロスラフ・ジドキー(Jaroslav Řídký)はカプリッチョの準備を指導し、ヤナーチェクは彼の貢献を高く評価した。「週刊色彩」(Pestrý týden)の編集者に宛てた手紙の中で、作曲家は「2つの小さな作品」を持ってプラハにいたと述べた。彼はユーモラスなよそよそしさで、自分の曲のせいで管楽器奏者たちが自分のパートを家に持ち帰って練習することになったとコメントした。「ホルマン氏が演奏するカプリッチョでは、高名なフィルハーモニー管弦楽団のトロンボーン奏者たちはその名声に反して、すでに家で練習しています!自宅ですよ!これは永遠に記憶に刻まれることでしょう[…]」。それに伴い、彼のコメントには、再び自身の作品を「反抗」と呼ぶことを小さく言及していた。

ホルマンは作曲家が初演前のリハーサルに参加したこと、特に1928年2月24日金曜日の午後のリハーサルに参加したことを回想している。
「これらすべてが私のスコアに示されています。私自身もリハーサル中はリズムと何よりも自分が入るタイミングに注意を払っていて、それ以外で消耗すべきではないと思っていました。ヤナーチェクは第2楽章冒頭のピアノ・ソロ (二声) が気に入らず、即座に『これは何とかしなければならない』と言いました。それで私はすぐにそれに応じましたし、トロンボーンに関するいくつかのコメントを除けば、彼は指揮者の演奏に何の異論もありませんでした。」

初演は1928年3月2日金曜日、プラハ市立文化センターのスメタナ・ホールで行われた。ヤナーチェクは妻とヴァツラフ・ステパン博士とともに出席した。演奏には指揮者のヤロスラフ・ジドキーとチェコ・フィルハーモニー管弦楽団のメンバー、ヴァツラフ・マチェク(フルート)、エフゼン・セーリとフランティシェク・トルンカ(トランペット)、アントニン・ボク、ヤロスラフ・シムサ、グスタフ・ティル(トロンボーン)、アントニン・コウラ(テナー・チューバ)が参加した。この『カプリッチョ』は好評を博し、作曲家はこの作品が頻繁に演奏されるだろうという確信を表明した。コンサート後、ヤナーチェクはホルマンのマネージャーからの旅費の支払いの申し出を断り、心からホルマンを祝福した。ブルノに戻った後、作曲家は『カプリッチョ』の最初の演奏者に改めて感謝と賞賛の言葉を書き、ブルノでのコンサートへの招待を勧めていると伝えた。しかし、ヤナーチェクは 1928年8月12日に急死したため、これは実現しなかった。

この作品の最も古い出典は、自筆譜の裏に書かれた31ページからなる非連続的なスケッチである。これらのスケッチのうち日付が記載されているのは1926年10月29日の一つだけである。スケッチには、第1楽章、第3楽章、第4楽章のテーマを見ることができる。スケッチは楽器構成に関して興味深く、この観点からそれらを3つのグループに分けることができる。最初のグループでは、作曲家が当初、弦楽器、金管楽器、木管楽器による通常の室内オーケストラ伴奏を計画していたことが分かる。2番目のグループのスケッチでは、最終的な楽器が具体化されている。ファゴット、コントラファゴット、チェロ、ヴァイオリンの代わりにトロンボーンが、クラリネット、オーボエ、ホルンの代わりにトランペットが採用された。スケッチの最後のグループは、楽器の使用が最終稿と一致しているため、手稿譜の完成形の作成中に作成された可能性がある。

作品の最初の流れや形は、112枚の自筆譜に見られる。そこには、トロンボーン3本、トランペット2本、テナー・チューバ、ピッコロという、ほぼ決定的な楽器編成が見られる。スコアはこの形でヤナーチェクの常連浄書家の一人、ブルノ国立劇場のトロンボーン奏者ヤロスラフ・クルハーネク(Jaroslav Kulhánek)によって作成された最初の筆写譜に書き写された。クルハーネクは1926年11月中に楽譜のコピーに取り組み、12月初めにはその完成品が作曲家の手元に戻った。彼はそれに黒インクで多くの変更を加え、改訂日を1926年12月4日と記した。この黒インクでの改訂版では、作曲家の注意はピアノ部分に集中しており、そこで技術的な特徴の変更(弾きにくい32分音符のパッセージの削減)が行われた。また、ピアノの独奏的な使用(短いカデンツァによる小節の補間、ピアノが主要テーマを持つパッセージの追加等)とサウンドの強化(単旋律のパッセージを適切なハーモニーで埋める等)への推敲も詳らかである。管楽器セクションでは、多くのパッセージでピッコロがフルートに置き換えられた。これは、オクターブ下への移調を意味する。したがって、新しい楽器であるフルートは、別の変更点とともにコピーのタイトルページにも書き加えられた。「ピアノの左手」という表記は「ピアノの片手」に変更された。テナー・チューバには技術的に高い要求を求めるパッセージを与えられ、他の部分ではトロンボーン・アンサンブルを補完した。この段階で作曲家はトロンボーンとチューバに対する当初の大きな技術的要求を修正し、大幅に軽減しました。トロンボーン奏者のクルハーネクは、管楽器の多くの技術的障害を進言し、ヤナーチェクに注意を促した。

この状態においてクルハーネクの筆写譜は、ブルノ国立劇場のフルート奏者ヴァツラフ・セドラチェクという別の浄書家の手に渡った。セドラチェクは1926年12月26日まで2番目の筆写譜作りに取り組んだ。その後、スコアが再びクルハーネクに返され、管楽器のパートが作成された。そのうちの1つであるバス・トロンボーンには1927年1月1日の日付が見られる。

ピアノ・パートは、作曲家が赤インクで修正を加えてから初めて準備された。修正は再びクルハーネクの筆写譜に書き込まれ、完成したすべてのパート譜に書き写された。作曲家はクルハーネクの筆写譜に変更を加えたことを伝え、1927年1月にこの筆写譜の28ページ全体(第2楽章)を削除することを決定した。 彼はそれを、7枚の白紙に書かれた新たに作曲した部分に置き換え、それらを28a~28gページとして指定した。クルハーネクはそれを2枚の新しいシート(28-28b)に写譜し、それを彼の筆写譜に貼り付けた。そのときになって初めて、ヤナーチェクは赤インクで上記の修正を加えた。

赤インクでの改訂は主に金管楽器パートの変更である。なお難しいフレーズもさらに簡略化された。トロンボーンは1オクターブ高く移調された。多くのタイが中断され和音の長さが変更された。第3楽章では、拍子、テンポ、動きが根本的に変更され、32分音符が16分音符に変更された。前出の黒インク版と同様に、アゴーギク、デュナーミクなどに関する演奏指示が追加された。この段階で重要な拍子もしくはリズムの変更が第2楽章と第3楽章で行われたという事実(小節線の移動など)を考慮して、セドラチェクはこれらの変更を第2版に書き出し、27〜57ページを新たに書くことにした。赤インク版改訂は1927年1月末から5月初めにかけて行われた。

オタカー・ホルマンは、1927年5月17日にセドラチェクの『カプリッチョ』の筆写譜を受け取り、作曲家は必要に応じて自分のパートを改訂してもよいと彼に指示した。ホルマンはセドラチェクの筆写譜に直接変更を書き加えた。彼の用いたインクの色は著しく異なる青であったため、今日私たちは彼の変更点の大部分を正確に識別することができる。ホルマンの最も大きな変更点は第1楽章に見られる。5〜8、19、23小節では、演奏を容易にしてテンポを維持するために、和音の配置を寄せた。残る変更点の目的は、ただただピアノの響きを強化することであった。ホルマンは、オクターブで音を倍にし、単旋律のパッセージに和声を加え、低音を拡張することでこれを実現した。第2楽章では、解釈による変更を加える可能性が見られる箇所は少なくなるが、同様の特徴を持つ変更となっている。第3楽章では、ホルマンは16分音符や32分音符の単一声部を弾き続けるため、より豊かな響きで補強することができる箇所がほとんどなかった。最終楽章ではより豊かな響きを生み出すために再びオクターブでメロディーを補強し、またシンプルなトリルの代わりに複合声部によるトレモロに変更した。終結部の遅いテンポの部分では、ホルマンは32分音符単位でオクターブによる響きにすることができた。

いくつかの改訂は、1928年2月6日にホルマンがヤナーチェクを訪問するまでに行われた可能性があり、作曲家による最後の改訂は、1928年2月の最終週のプラハでの初演リハーサル中に行われたが、そこではセドラチェクの筆写譜しかなかった。

『カプリッチョ』の出版楽譜初版は、1953年にヤルミル・ブルクハウザー(Jarmil Burghauser)によって国立文学・音楽・芸術出版社からスコアとパート譜のセットとして出版された。第2版は1959年に同じ出版社からポケット・スコアとして発行された。その後、同じ編集者がスプラフォン社で新たに校訂した第2版を1974年にスコアとパート譜として、1979年にポケット・スコアとして発行した。ブルクハウザーは基本的な資料を比較し、その版ではヤナーチェクのオリジナルのピアノ・パートとオッシーア(別バージョン)としてホルマンの版が紹介された。編集者は写本家の明白な間違いを修正し、類推によってダイナミックおよび演奏指示を埋めました。技術的に簡略化するため、彼は作曲家の意図を妨げない限り楽器を交換しても良いことを多くの箇所で推奨した。

『カプリッチョ』の4つの楽章はすべて自由な形式で構成されており、最初と最後の楽章はソナタ形式のような輪郭を持っている。もう1つの重要な構成要素は、個々のテーマと特定の楽器または楽器グループとのつながりである。この作品はヤナーチェクの成熟した創作期の典型的な特徴を示している。動きとテンポは共に、構造の個々の要素にとって重要な意味を持っている。したがって、ある文脈の中で主要なメロディー・ラインとして統一されたモチーフの核を見つけることができ、すぐに同じ素材が「Sčasovka(スカソフカ)」(一種の縮小形)として伴奏の役割に現れる。

ルドヴィク・クンデラは、ヤナーチェクのピアノ独奏曲の構造の特徴を、3つの基本的な機能の存在をもって定義した。メロディー、スカソフスカ、拡大するバスである。器楽アンサンブルを伴うピアノ作品(1925年の『コンチェルティーノ』と『カプリッチョ』)の場合、これらの扱いに根本的な違いがある。構造の要素は複数の楽器に分割されており、ピアノはほとんどの場合、与えられた機能のうちの1つだけを受け持つ。たとえば、第1楽章のメインテーマ、第2楽章のソロの導入、そして対照的に第3楽章の16分音符と32分音符のパッセージがそうである。作曲家は、自分の作品がピアノ協奏曲の名人技的なソロ・パートからかけ離れていることを自覚しており、個々の楽器の重要性も同様であると彼自身指摘している。
伴奏のアンサンブルに選ばれた楽器は常に大変な注目を集め、多くの憶測を引き起こしてきた。ホルマンの回想に頼ることができるとすれば、答えはシンプルかつ信頼できるものである。ヤナーチェクは左手のピアノと軍楽を組み合わせることにしたのだ。同じ年、軍楽への関心が『シンフォニエッタ』の誕生の決定要因となったことを思い出してみれば良い。ヤナーチェクの作品で最も古い類似作品は、ピアノ、半音階トランペット、3本のトロンボーンを伴う1873年の合唱曲『戦いの歌(Válečná)』だろう。

『カプリッチョ』では、個々の楽器に非常に珍しい要求が課される。フルートは多くの場合、高音域を音響的に持続させる機能を与えられる。フルートの技巧的なパッセージは金管パートと一緒にまとまって登場する。トロンボーンの場合、作曲家がバルブ付きトロンボーンを要望したことにその説明を見つけることができる。これらの楽器は1919年までブルノ国立劇場のオペラ・オーケストラで使用されていたことを言及しておく必要がある。ヤナーチェクが劇場オーケストラと緊密に協力していた時代には、トロンボーン奏者ヤロスラフ・ウシャクはヤナーチェクが当初要求した変ホ長調のバス・トロンボーンを使用していた。『カプリッチョ』の第1楽章の終わりにも使われている楽器である。作曲家は、オペラや交響曲のオーケストレーションの実践において慣れ親しんだトロンボーンとテナー・チューバの通常の組み合わせをこの作品にも応用した。ヤナーチェクの「テナー・チューバ」とはバス・ビューグルを意味し、通常のホルンで置き換えることを許可している。
ヤナーチェクの努力は、彼の作品群の文脈において注目に値する作品を生み出し、左手ピアノのためのレパートリーにおいても例外的な地位を占める作品となった。 この作品を「カプリッチョ」として呼ぶことは、妙技の要素を備えた面白い即興性を呼び起こすものと考えられている。ヤナーチェクはこのタイトルを名手によるソロ作品という意味で使用し、しばしばその内容のユーモラスさに言及した。しかし、作曲家がステスローヴァに伝えたタイトル『反抗』は、より深い隠された意味を暗示している。ここでは、ユーモラスなタイトルと、戦争によって人生が悲劇的に変わってしまった芸術家の悲しい運命との間の緊張感が描かれている。これらの相反する印象の結果は、叙情的なパッセージと踊りのパロディによる奇妙なモザイクとなっている。

ヤルミラ・プロハシュコーヴァ(英訳・デイヴィッド・R・べヴァリッジ)
(英語版翻訳・稲森安太己)

Kritische Gesamtausgabe der Werke von Leoš Janáček Reihe E / Band 5, Capriccio für Klavier (linke Hand) und Bläserensemble (1926) 
ホルマン版で和音がオクターブに補強されていることが分かる
単音によるメロディーのオクターブ補強と和音の配置の変更
トリルのパッセージもオクターブで強度を上げている
和音の配置や演奏方法の大幅な変更

全集版楽譜は専門的な研究者が主要な校訂課程に関わって出版されます。そのため、制作にあたって参照される資料も膨大で、内容の信憑性が高いとされています。ヤナーチェクはいくつかとても好きな曲がある作曲家で、いつか記事で取り上げたいと思っていました。作曲家と演奏家、出版社等、音楽を発表する作業にかかる時間や苦労などを追体験できるエピソードを読むことができて、とても考えさせられる内容でした。

前編の記事はこちら。



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