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忘れたくない糸井さんと泰延さんの会話

一昨日の深夜、Twitterで糸井さんと田中泰延さんがこんな会話をしていた。

泰延さん:モノ自体の品質は良いこと、そして商品の後ろに「ストーリー」「歴史」が感じられたら人は買い物する。ほぼ日はそういうモノのセレクトショップであり、メーカーでもある。それを20年積み重ねてきたわけで、「ブランドを立ち上げる」というときに学ばないといけないのは「物語を紡ぐ言葉の力」だよね。

糸井さん:上手なストーリーテラーでない者でも、ほんとのことさえ書けばいい。それができるモノだけを、創る、置く。

泰延さん:そういう意味では「香具師の口上」の正反対ですよね。いわゆる「コピーライター」という仕事も誤解されやすいけど、「コトバの魔術師」じゃない。大事な人を大事な人に紹介するときのこと考えたらわかる。ちゃんとする、それだけですよね。

糸井さん:コツやなにやらテクニックみたいなものを求められても、困るということはある。それよりは人がちゃんと話を聞いてくれる人になるとか、のほうが大事なのだと思う。

このやりとりを見つけたとき、ぼくはこんなツイートをした。

「ほんとのことを書けるモノだけを創って、置く。」
糸井さんはそう言った。

ほんとのことを書けるものは、実は少ない。

「売れてほしい」とか、「いいねされたい」とか、「わかる!と言われたい」とか、実はほんとじゃないことが、本当にたくさんある。

そして、「それっぽいもの」もたくさんある。
むしろ「それっぽい」ことだけが大事で、その話がほんとかどうかは関係ないんじゃないかとすら思うときがある。

例えば、テレビでドラマを見ながら、感想を言うことは楽しい。
となりに奥さんがいて、子供は寝ていて、「仕事で、そんなことあるわけないじゃん」とか言いながら、お酒とか飲みながら、ダラダラとした時間を過ごすことは楽しい。
ドラマが実話かどうか、現実的にありえるかどうかなんて、関係ない。
難しいことを考えずに感想を言って、奥さんと楽しく会話できれば、それで十分だ。

でも、その無責任な会話がネットで飛び交うと、人を傷つけたり、怒らせたりする。家の中でなら、誰も傷ついたり怒ったりしないのに。

話を戻そう。

ほんとのことを書く、という糸井さんの姿勢が好きだ。
その真っ直ぐな文章に触れられると、幸せを感じたりする。
たとえば、こういう文章だ。

・ずっと家にいると、いつもよりもかわら版的な情報に漬かっている気がする。週日の昼間や夕方のテレビを点けておくと、同じニュースが何度も何度も、どこの局からも流される。
たぶん、家にいることの多いテレビ好きな人は、ひとつの情報を、10回以上も繰り返し繰り返し、受け止めているのではないだろうか。
その情報について、コメンテーターという職業の人から「こういうふうに思う」というような、いくつかの「感想モデル」が提示される。そのうちの気に入った「感想モデル」をコピーしたり、複数の「感想モデル」を混ぜたりして、じぶんの「こういうふうに思う」という意見が作られる。
ここまで、じぶんの頭でほんとうに考えなくても、ほんとうにこころに感じることがなくても、なんとかじぶんのコメントも出来上がってしまう。

1日に何十回も「大事なニュース」が放送されていると、その「大事なニュース」について、なにか言わないといけないんじゃないかという気になるのかもしれない。人と会ったときに、その話題について語りたくなる。そのことについて「だまっている」ことが、かえってむつかしくなっていることに気づく。
近くに語る相手がいなければSNSでコメントを発表する。そして、しゃべるだけしゃべったころ、その話題がまるごとフェイドアウトしていったりして、あらたに、次の話題がやってくる。

みんなが話題にしていることについて、あなたのコメントを、だれが求めているのだろうか。仮に、近所の話し相手の人々が求めているとして、みんなが話題にしていることについて、それは、ほんとに本気で訊きたがっているのだろうか。娘に暴力をふるう父親について、結婚した野球のコーチとタレントについて、重大な病気をみずから発表したスポーツ選手と、それに言ってはならない感想を述べた政治家について、だれもが、たいていのだれもが思うようなことを思う。そして、あちこちで一斉に、コメントの発表をしている。
ねぇ、みんな、あんたの本業は、そっちやないで。実際に、あんたを必要としている場所でがんばろうや。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。思えば、この国という単位で「おちつけ」が必要だよね。
今日のダーリン2月14日

今日の、今日のダーリンを読んだとき、真っ直ぐな言葉に深くうなずいた。自分の場所で、がんばろうと思った。

上手に文章を書けない人にもできることは、本当の気持ちを書けるものだけを追いかけて、言葉にできたらそっと置いておくことだ。

そして、忘れたころに出してきて、そのときの気持ちを思い出したり、新しく書き直してみたりすればいいのかもしれない。

ぼくがいま、思いのままにnoteを書いているように、伝えたい気持ちはそれだけで、本当は伝わるのかもしれない。

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