「努力は裏切らない」は、今になって本当だと思うようになった
…なんていうタイトルで、最近ふと思ったことをつらつらと述べていこうと思う。
中学生〜高校生ごろの、いわば「思春期」真っ盛りで花咲かじいさんでも守護霊としてついてんじゃねぇのかと言わんばかりに思春期の花を咲かせていた私は、
「『努力は裏切らない』なんて言葉はただの綺麗事だ」
ぐらいに思っていたものである。
そもそも「努力」というものを全くしていなかったし、「努力だ!」「根性だ!」「やる気だ!」と熱血漢的思考を持ったクラスメートや先生たちに対して辟易していた所以も少なからずあるだろう。
兎にも角にも、私は「努力は裏切らない」という言葉を、全くもって深い意味を考えずに言葉の上部だけ、もうなんかほんと…湯葉でも作ってるぐらいのレベルで上澄だけをすくっていたのである。
しかし、最近になって…というよりここ5年ぐらいの間で、…「努力をしている」なんて言うのは穴があったら入りたいレベルで恥ずかしいが、なんとなく自分なりに音楽をがんばってみたりしていて、自分でも「意外とがんばってるな」と言える程度には習慣化できていると思われる。
ここにきてようやく、私は「努力は裏切らない」の意味を自分なりに解釈することに成功した。
なぜ思春期の私が「努力は裏切らないなんて綺麗事だ」と思っていたか…というと、おそらくその根底には「競争(または比較)」が含まれていたからではと。
わかりやすい例で言うと「学校の試験」である。
学校の試験は順位が出る。1位の人もいれば最下位の人もいる。
私がもし、「次のテストでは学年で1位を取る!」という目的で一所懸命に勉強(努力)し、テストの結果が返ってきて学年で20位とかだった場合、私は思うだろう。「努力は裏切らないなんて嘘だ」と。
しかし、もし仮に「この前のテストでは60点しか取れなかったけど、次のテストでは80点を取れるようにがんばろう」と思い勉強し、結果的に80点には届かず75点だったとしても、
「この前のテストよりは良い点数になった!」
と、自分の努力の成果を自分で褒めるかもしれない。
つまり、努力する目的が「競争」なのか「自分との闘い」なのかで、努力に対しての見解は全くもって変わってくる。
努力の目的が競争になってしまうと、いくら自分が成長していたとしても負けたが最後、「努力なんて意味がない」と思いかねない。
その点、「自分との闘い(成長)」を目的としての努力の場合、例えば1ヶ月前の自分と比較したときに「あの時の自分よりは良くなってる」と自分の成長そのもに目を向けることができる。
高校生の頃、初めてギター1本で作曲をしてみた私と今の私とでは、全くもって曲のクオリティに差がある。
これまでに何曲もうんこみたいな曲を作ってきたからこそ、それなりに聴けるような曲を作れるようになったと言えよう。
これを、プロの作曲家の方と自分を比較して「私はこんな曲しか作れない…」と思い始めてしまうと、それこそがんばることへのモチベーションの妨げになってしまう。
…なーんてことをふと考えたので、ちょっとnoteにまとめてみた次第である。
おーわりっ!
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