【連載小説】4つの頂点と辺 #3

第1辺:森下つぐみ(長女)の章(2)

病院に行ってからも、状況は変わらなかった。

特に体に異常はないようだった。頭もくらくらしないし、めまいもない。排泄の回数は減っているようだ。体重も減っていない。体調も悪くはない。午前六時に目覚めて、八時半に出社。だいたい夜は八時ごろまで残業をし、帰って眠る。いつもの生活パターンから、食事だけがなくなった。

週があけて、月曜日になり、火曜日になり、水曜日になった。そして、今日でまるまる一週間何も食べないでいたことになるのだ。断食僧でもここまでのハイスコアをいきなり叩きだせないだろう。


モリシタさんは、森下つぐみといって、祖父江の一つ下の後輩だった。祖父江たちが勤めているのは電子部品を扱っている中小企業である。営業部で働いている。入社二年目だけれど、営業の成績は悪くない。

祖父江は、彼女と友人以上になりたいと望んでいる。

彼女が入社してきたとき、新人を歓迎する会で、祖父江は彼女の隣に座った。祖父江はそのとき酒を相当飲まされていて、気持ちが悪かった。

「大丈夫ですか?気持ちが悪いんですか?」と、入社間もないモリシタさんは話しかけてくれた。

もうたぶん五分くらいで吐くよ、と祖父江は答えた。でも吐くまでは俺は元を取る。飲むし食うよ。食べて飲んだという記憶を貯めこむよ。

彼女とは音楽の話題で趣味が合った。彼女と話をしているとき、祖父江はリラックスできた。とにかくリラックスできるというのが良いんだよな、と祖父江は思った。

友人以上になりたいと望んではいたが、そんな願いを行動に移すことはできなかった。モリシタさんは、人を惹きつけるものを持っていた。仕事で上司とぶつかっても、切り替えが早く、ひきずることがない。相手に負担をかけずに、さっと気配りができる。社交的というのではないが、人と話すときには物怖じしないし、話がわかりやすい。人の話もきちんと聞く。

それをモリシタさんは笑顔でやっているから、たいていの人なら好感を抱く。彼女への嫉妬心を抱く人もいたが、いざモリシタさんの前に来ると、つい無駄話をしてしまう。

何人かは彼女に交際を申し込んだ、といううわさを聞いた。でもことごとく振られてしまったということで、それは、モリシタさんには結婚を約束した相手がいるからだという話だった。

そんな相手がいるのに、自分がでしゃばって彼女をいたずらに混乱させたりするのはいかがなものかと祖父江は考えていた。だから彼はとにかく彼女と話すときには、「自分はリラックスしている」ということに集中するように努めた。どんなに話の途中で親密な空気になったとしても、ブレーキをかけた。

無駄なことをしているような気持ちに時おり襲われた。見込みのない相手に、ひどく疲れる思いをしているのが面倒だった。もう手っ取り早く何とかしてしまおうか、と祖父江は凶暴な気持ちに襲われたことがあった。会社帰りに一緒に帰って、お酒かなんかを飲ませて、そのままホテルに連れ込んでしまうんだ。

馬鹿げた考えだ。

祖父江は首を振ってそんなヨコシマな考えを追い払おうとする。でも気が付くと頭の中で、彼女を無理やりに犯してしまうための、細かい手順を一つ一つ追っていた。どうにかならないものだろうか。どうして自分は、こんなに彼女に拘泥するんだろうか。


祖父江がものを食べないことで、家族は心配しはじめた。心配もしたけれど、母親は何より怒っていた。朝食も、夕食も食べない。

「このまま何も食べないつもりなら、家を出て行きなさいよ」

母親は言った。

「食べない口を持っている人間を飼っておくほど、私は寛大じゃないんだよ」


昼休みの窓の外には雲が広がっていた。晴れているとばかり思っていたのだけれど、昼休みが終わるころには、曇天になっていた。

祖父江はぼんやりとしていた。忙しい時期が過ぎたら、祖父江は有給休暇を一週間ばかりまとめて使うことになっている。

もう一週間も何も食べていないんだな。また点滴を打ってもらいに行ったほうがいいかもわからないぞ。そろそろ栄養切れかもしれないからな。

夕方の六時になって、またチャイムが鳴る。定時を知らせる合図だ。アラガキがさっさと帰り支度を始めた。彼は一週間に三日以上はスポーツジムに通っていた。トレーニングしないとそわそわしていけないんだ。おれは死ぬまで体を鍛えてやろうと思っているんだよ。

チャイムが鳴ったのを合図にして、部屋の中にいた人たちは、いそいそと一斉に帰り支度を始めた。久しぶりに早く帰れるな。そんな早く帰りたかねえや、一杯やっていこう。飲みに行こうとする上司に祖父江も誘われたが、もうちょっと仕事をやっていきます、と答えた。もうすぐ休暇ですから、そのまえに区切りをつけておきたいんです。

そふえちゃんはまじめちゃんだな。経理が遅くまで残ってると会社がうるさいんだよ。なるべく早く切り上げてよ。

みんなが帰ってしまって一人になると、作業ははかどった。はかどりすぎて口笛を吹いてしまうくらいだった。

もういちどチャイムが鳴った。

気がつくと、会社の中で残っているのは自分だけになっていた。社内の電気はあらかた消えていて、彼の座っている一角だけが、舞台にあてられたスポットライトのように明るくなっていた。これはいけないな、早く帰ろう、と思ったときだった。

「祖父江さん、まだいたんですか?」

声がした。モリシタツグミだった。


> 第1辺:森下つぐみ(長女)の章(3)へつづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?