【連載小説】4つの頂点と辺 #5

第2頂点(1)

森下家の長男・薫氏が行方不明だと聞いたのは、森下家の火事を目撃したちょうど一週間後だった。

私は商社で数十年働いていたのだが、認知症を患った妻の介護のために会社を辞めた。
辞めたとたん、事故で妻は死んだ。餅を喉につまらせてしまったのだ。私の留守中の出来事であり、私が発見した時には、かわいそうにもがき苦しんで喉をひっかいたようで、喉は血まみれになり、苦しさのために目玉が少し飛び出た状態で床に倒れていた。
妻は餅が大好きだったのだが、そしゃくする力が弱っていたため、遠ざけていたのだった。しかし私の留守中に、どうしても食べたくなってしまったのだろう。

感謝の言葉を述べる間もなく、妻はあっけなく灰になった。仕事も家族も失って、私は途方に暮れた。一日があっという間に過ぎ去り、ただ立ち尽くしているうちに日々が過ぎていくようだった。

思い返せば、私の人生の大半の記憶がぼんやりとしている。

商社に数十年勤めていたにも関わらず、仕事の内容、上司・同僚の名前はおろか、会社の名前や通勤経路など、もろもろの記憶がはっきりしなくなってきた。妻の死とともに、私の存在を証明してくれる何かも灰になってしまったようだった。

散歩が日々の習慣になったのは、やることもなく、家にひきこもっていると、頭の中がどんどん灰色になっていくような気がしたからだ。
一人で散歩をするのもつまらなかろうと思い、犬を飼うことにした。先々のことはわかったものではないが、人間の平均寿命から計算すると、おそらく犬よりは少し長く生きられるだろうという算段であった。

犬の飼い方は本を読んで勉強をし、ペットショップの主催する「飼い主の会」にも加入した。子どももなく、仕事・仕事・仕事で過ごしてきた私には、いろいろと新鮮であった。

「飼い主の会」では思いがけず友人もできた。七十を越えているのに、やたら下品な話の好きな男だった。彼は家の中に居場所がないのだと言い、年齢のせいかゲップが止められないとぼやく。

子どもを作らなかったのは、意志的に決めたわけではなく、妻との性交渉があるときから自然消滅してしまったからだった。理由は、私にあり、私がとある既婚女性とただならぬ関係に陥り、それが妻に露見したからだ。

しかし妻は離婚を切り出さず、私の形ばかりの謝罪を受け入れて普段と変わらぬように毎日を過ごした。それが逆に私には恐ろしかったわけだが、しかし妻がどのように思っていたのか、最後までわからないままだった。

妻は手紙や日記の類は書かない人間だったし、誰かに愚痴を言うような人間でもなかった(誰かには言っていたのかもしれないが、それもわからない)。
結局のところ、私は妻のことが何もわからないままであった。ある意味ではそれが彼女の復讐だったのかもしれない。

しかし妻には申し訳ないが、今のところ死のうと思うこともなく、単に朝起きて、食事をし、犬の世話をし、その間にひたすら歩いている。本当は自殺でもして後を追うのが子供のいなかった夫婦のツトメというものかもしれないと思う。

森下家の長男・森下 薫氏が行方不明だと聞いたのは、「飼い主の会」で仲良くなった例の友人と森下家について話していたときだ。

友人によると、チェコだかボーランドだか、東欧のほうに長期の出張に行っていたらしいのだが、現地で行方不明となり、帰国予定日をとうとう一ヶ月も二ヶ月も過ぎたのに帰らないというのだ。現地で住んでいたアパートには、ついさっきまで生活していたような痕跡が残っていたという。まさにこつ然と姿を消した、という表現が当てはまる。

「どうしてそんなに詳しいのかね?」
と私が聞くと、友人は露骨にバカにしたような顔をして言った。
「あんたテレビ見てないの?」

そう言われて、私は家の中にテレビがないことに気がついた。確かに私は家でテレビを観た記憶がない。妻はいったいどうやって時間を潰していたのだろうか。

> 第2頂点(2)につづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?