【連載小説】4つの頂点と辺 #1

第1頂点

森下家が燃えている。火事だ。十月も終わりに近づいたある日の夜、私は犬の散歩をしている最中、偶然にそれに遭遇した。

しかし、私が第一発見者というわけではなかった。消防車はすでに何台も到着して、周囲は人だかりで埋め尽くされていた。むしろ、なぜ私はそれまでのんきに犬の散歩などしていたのだろう?と思うほどの大騒動であった。やはり耳が遠くなっているのだろう。

私の家と森下家は同じ町内ながら、特に親しいわけではない。何の接点もないのだから当たり前だ。しかしなぜか気になる家であった。

日曜日には美人の部類に入るかわいらしい姉妹が、ときおり仲良くお喋りをしながら、ベランダに布団を干している様子が見られた。

還暦を過ぎた歳になっても(そしてかつ妻を昨年に亡くしたばかりだというのに)思春期のような胸の高まりを感じられることに、私は密かに誇らしい思いを抱いた。そして、私にこんな思いを抱かせてくれる美人が住まうモリシタ家というのは、いったいどんな家なのか?とかねがね気になっていた。

その家がいま、恐ろしい炎に包まれて炎上している。

ここいら一帯は、昔からの住民と、新しい住宅地に入ってきた住民とのブレンドで構成されている。私は新参者もいいところで、隣の町から昨年に引っ越してきたばかりである。

「やもめの男が一人で住んでも怪しまれたりしないようなところに住みたいのだが」と私は不動産屋に言って、この町を紹介してもらったのだ。

「古くから住んでいる人もいますが、町内会に強制参加させるわけでもないし、アパートには一人暮らしの人も多いですし、おすすめです。孤独死だけ気をつけていただければ」

森下家の二階建ての住宅は、ますます火の勢いを強め、もうもう黒い煙を吹き上げて燃えていた。黒混じりのオレンジの火が手を上げて平手打ちを食らわすように、二階の窓ガラスはバリバリと破られた。もうすぐ、姉妹が布団を干していたあのベランダも炎にのみこまれてしまうだろう。

あーあ、これはダメだな、と人混みから声が上がる。悲しみや嘆きというのではなく、ただの野次馬が好奇心から発するだけの声である。

(お前などは、あの美人姉妹のことを、少しも思っていないくせに!)

腹が立ったが、私だって、ただポカンと口を開けて見ていることしかできない、ただの野次馬である。その点では大差がないのであった。

「家の中に人はいるんでしょうか?」

ふと気になった私は、近くに立っていた中年の女性に聞いてみた。中に人がいるかもしれない。なぜ今までその可能性に思い至らなかったのか?あの美人姉妹が火の中にいるとしたら!

「いませんよ」

女性はきっぱりと言った。

「私が、ここにいるのでね。あの家は空き家です」

誰あろう、その人が、森下家の母親であった。

彼女は、まるでそこらの野次馬と同じような眼差しで、腕を組み、我が家の燃え落ちる様を冷徹に眺めていた。私は彼女と面識はないが、顔だけは知っている。

(この女性からあの美人姉妹が生まれるとは信じがたいな)と思いながら私は彼女を見ていた。この非常時に。

私があまりに彼女をじっと見ていたのが気に障ったのか、あるいは我が家の燃え落ちる様を眺める、そのアングルを変えてみようと思ったのか、森下家の女家長である母親は、人をかき分けて行ってしまった。

「じいさん、犬が踏まれるよ!」

耳に口を突っ込みそうな勢いで、中年の男が私に注意した。見ると、私のかわいい犬が、野次馬でやってきた太った中年女性の履いたブーツに体を蹴られて情けない声を出していた。

これだから小型犬は!

私はカッとなって、犬を抱き上げ、この不愉快な場から逃げ出そうと体をよじりだしたが、そのころには野次馬はさらに膨れ上がっていた。私は集まった人の圧で、一歩も動けない有り様だった。いったいこの町のどこに、これだけの人間が、ゴキブリのようにひそんでいたのだろうか?それを思い、私は肝をつぶした。

私は三十分ほどかけて人混みを脱出し、疲労困憊して家に辿り着き、火事をのんびりと眺めるゴキブリどもに速やかで安らかな死が訪れることを願いながら、そのまま寝てしまった。

結局、明朝になって知ったところによると、森下家は柱も何もかも灰になるまで焼き尽くされ、消火されるまでに明け方近くなるまで、およそ五時間ほどを要したそうだ。死者はいなかったという。


> 第1辺:森下つぐみ(長女)の章(1)つづく

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