【連載小説】4つの頂点と辺 #2

第1辺:森下つぐみ(長女)の章(1)

お昼を告げるチャイムが鳴った。

どうして会社なのに、学校みたいに間抜けな音を鳴らすのだろう、と祖父江は思う。

チャイムが鳴ると、部屋にいた人たちは席を立って、昼食に出かけていく。祖父江と、隣に座っているアラガキが席に残る形になる。アラガキのところには、もうすぐ午前中に注文していた弁当が届くはずだ。アラガキは筋肉質で、年齢は二十八歳だが、頭にどういうわけだか白髪がまじっている。そのせいで、顔の角度によっては四十に手が届くくらいに見える。

「今日はシャケ弁当にした」アラガキが特に誰に言うでもないように言う。「お前、今日も食べないの?」

祖父江はうなずく。

今日で一週間、祖父江は何も食べていないことになる。

一日三食×七日間である。食欲はない。少し眠い。今日の昼飯もパスした。

食欲というものが、がたりと抜き取られている。腹が減らないし、食べ物、飲み物を口にしたいと思わない。無理に食べるくらいなら、食べなくてもいいと思う。体の中から消化器官が消えてしまったみたいだ。

一週間ものあいだ、まったく食欲が湧かないというのは、さすがに体に良くないことが起こってるんだろう。

四日前の土曜日、祖父江は病院に行き、診察を受けてみた。結果は異常なしだった。医者もよくわからないと言った。ときどき、あなたのようによくわからない人が来るんですよ。

「食べないと死にませんか?」

「とりあえず点滴くらいは打ちましょう。食欲がなくても、ゼリーやおかゆでかまいませんから、少しずつ食べることを始めてください」

ご希望であれば、と医者は言う。入院の手配もしますが。

祖父江は断った。そんなことになったら仕事に支障が出る。それにせっかくの有給休暇をこんなところで使いたくない。あとでまとめて使う予定になっているのだ。

「しかし原因はなんだろうが、食べないんだから体に悪いのは一緒じゃないか」アラガキは言った。

「まあそうです」

「何か食べろよ」

一週間前の水曜日

祖父江はいつもの通り、会社で仕事をしていた。計算機の『C』を押したとき、祖父江は、急に、がくん、という震動を感じた。下腹部を中から突き上げられたような衝撃だった。

地震かな、と祖父江はとっさに思ったが、そんなことはなかった。もしそれが本当の地震だったら、誰かほかの人も気がつくはずである。それくらい体が揺れた。大きなトラックが会社の前を走っていたということもない。会社が入っている建物は鉄筋のはずなのだが、大型のトラックが通り過ぎると、体に感じるくらい揺れるのだ。でも、そういうことでもなかった。

揺れたよなあ。

彼は会社の経理部で働いている。仕事では伝票と電卓を相手にしている。伝票と、コンピュータの画面と、計算機を順番に見ながら、計算を進めている。そして計算機の『C』。

震動。

その日の昼になったが、祖父江は空腹をまったく感じていなかった。気分が悪くて食べたくないのではないし、その気になれば弁当くらいは食べられる気はする。でも空腹でもないのに、お昼だからという理由だけで食事をとるのは、馬鹿らしい気がした。だからそのまま食べずにおいた。

午後の四時を過ぎて、営業のモリシタさんが得意先にもらったクッキーを持ってきて、配分してくれた。一つくらい食べようかなと思ったが、けっきょく祖父江は手をつけなかった。

夜になっても食事をしなかった。その日は残業をしたから、帰宅は深夜十一時くらいになったはずだった。家族には、外で食べてきたと言った。残業をするときは、会社でコンビニの弁当を食べるか、外で夕食を済ましてくるのが常だったので、家族も疑わなかった。

翌日の木曜日は起きるのが遅くなり、朝食を食べずに家を出た。そのまま、昼も食べなかった。午前中に始まった会議が長引いたのだ。

「この、この、忙しい時期によう。クソの集まりを催しているんじゃねえよ」

アラガキが筋肉質の体を震わせて怒った。会議の資料を作ったアラガキと祖父江も、会議に出席するよう命じられて、本来の仕事がまったくできなかったのだ。特に何をするでもなく、ただ座っているだけで会議は終わった。昼休みはとっくに終わっていたが、アラガキは弁当を出前で注文した。昼休みが終わっているんだから、昼食は外で取りなさいと注意を受けたが、アラガキは無視した。

「お前も弁当食えよ」

アラガキは言ったが、祖父江は食欲がないので、と言って断った。

「お前そういえば昨日も昼飯食わなかったじゃないか。食べたり食べなかったりが良くないんだぞ」

結局、その翌日の木曜日も、一日中何も口にしなかった。うがいをしたり、歯を磨いたりで、口をすすいだくらいだ。

さらにその翌日の金曜日には、同僚と飲みに出かけた。モリシタさんに誘われたからだ。祖父江さんもどう?とモリシタさんに言われたら、行かない手はない。

しかし行ったことは行ったのだけれど、祖父江は注文したビールにとうとう口もつけなかったし、何も食べなかった。

「飲まねえ、喰わねえ、てめえはやる気がないなら帰れよお!!」

営業部の男が酔っ払って言った。

「数字ばっかり見ていると精子がなくなっちまうのかあ?」

祖父江の態度を見て、和を乱すけしからん個人主義の発露だとして機嫌を悪くした人も二、三人いた。祖父江は全部無視した。別に金は払うって言ってるんだ。別にいいじゃないか。何をそんなに

「どうしたの?具合でも悪いんじゃない」

モリシタさんが言った。祖父江の左隣に座っている。彼女がジョッキを持ち上げようとするたび、ひじがくっつく。

「お腹がぜんぜん空かないんだよ」

わたし家族と暮らしているからか、料理を作る能力がないんです。たまご料理を作ったことが一度もありません。でも妹は作れます。妹は料理が上手いんですけどね。モリシタさんは入社間もないころ、そんなことを言っていた。


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