【連載小説】4つの頂点と辺 #8

第2辺:森下智(次男)の章(2)

父親が死んだのは、智が十歳のときだった。

その年のはじめに、突然、母親が出ていった。母親は自分たちに何も言い残さず、書き置きも何もなかった。消えた、という表現が似つかわしいような記憶だった。今に至るまで実の母親に会っていないし、ほんとうに死んだのかもしれない。

代わりにやってきたのが、知らない女と、その幼い娘だった。

「新しいお母さんと妹だよ」と父親は言った。その年の終わりに、今度は父が死んだ。あっという間の出来事だった。そうして今に至るまで、あの知らない女が母親として子どもたちを養ってきた。

智は埼玉県にあるアパートから、東京の大学に通っている。実家は東京にあるのだが、家を出たくなって一人暮らしを始めた。

そもそも大学に入るまでに二年間かかった。ふらふらして、ぼんやりとした二年間だった。大学への入学が決まると、智は完全に家を出ることを決めた。家賃が東京に比べて安かったから、埼玉県に引っ込むことにした。仕送りは要らないと智は言い、当たり前だと母親(正確には継母)に言われた。

お前は本当にろくでもない。今に殺されて死ぬだろうね。

窓の外はあいかわらず雨が降っている。バスは国道を走っていく。バス停がアナウンスされる。何人かが降りて、何人かが乗ってくる。乗客の数はだいたい保たれている。
道路がところどころ工事されているらしく、そこを通り過ぎるたびに、車体が左右に大きく揺れて、吊り革が踊る。

雨のせいなのか、道が少し混んでいて、バスがなかなか進まない。余裕を持って出てきているから大丈夫だと思うが、はじめていく病院だから、勝手がよくわからない。バスは電車とちがって時間が正確に読めないから困る。やはり電車で行けばよかったと思うが、もう乗ってしまったし、乗り換えるのも面倒だ。

智子は傘を両手でしっかり握って、窓の外を眺めている。

智はタブレット端末を取り出してブログやニュースを読むことにした。
そういえば智子は小さいころは車に乗ると、ほぼ必ずといっていいほど、乗り物酔いをして吐いていた。いっぽう智は、揺れる車の中で、本を読んだり食事をしたりしても、まったく車酔いをしない。

サンハンキカンの作りがちがうんだろうな、と智はいつか智子に言ったことがある。

がさんがさん

バスがまた、工事中の道路の上を走る。

正月でも夏休みでもないのに、いとこの智子が群馬県からやってきたのは二日前のことだ。

病院に行かせたいのだけれど、智子は土地に不慣れだから、申し訳ないが一緒に病院に付き添って行ってくれないか。智子も、智と一緒なら病院に行ってもいいと言っているのだけれど。と叔母から電話を受けて、智は承諾した。

わかりました。あとはこちらで引き受けますから、安心してください。智は言った。

智子が群馬に帰るまでに時間があれば、東京タワーに行ってもいいなと智は思う。東京タワーは、周りを墓地に囲まれていて、墓に足を埋めるようにして立っている。

まるでお前のようだよな。

車体がまた大きく揺れた。
智が顔を上げると、バスのワイパーが、フロントガラスの水を勢いよく弾き飛ばしている。雨足がますます強まっているのだ。智子はじっと窓の外を見ている。智は無遠慮に彼女の横顔を眺めたが、いくら智がじっと顔を見つめても、彼女はこちらを向くことはなかった。目がうつろだ。どこも見ていない。

渋滞はまだ続いているが、バスは少しずつ前に進んでいる。智はタブレット端末に目を落とした。あるサイトに、一人で海を漂流し、奇跡的に生還した船乗りの話が出ていた。

「真夜中に甲板を見回っていたとき、突然に大きな波が来てさらわれ、海に放り出されました。私が海に落ちたことに、誰も気がつきませんでした。しばらく大声で助けを呼びましたが、体力を消耗するのでやめました。水も少し飲んでしまいました。船はあっという間に見えなくなってしまいました。もう助からないと思うと、恐怖で身体の力が抜けてしまいそうでした。」

智は不意に、智子の手を握ってみた。

智子は体をびくりとさせて、初めて彼の存在に気がついたかのように智のほうに顔を向けた。向けたけれど、彼女は何も言わなかった。まばたきもろくにしていないようだった。彼女の黒目は穴が空いているように虚無的な空間で、手は冷たかった。手だけが冬眠している。

さっきね、面白い記事を読んだよ。智は言った。海で漂流して、奇跡的に生還した船乗りの話なんだけど、それを読んで思い出したことがあるんだよ。


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