バビロンのデイライト(第1章の1)

  新宿三丁目の駅を地上に上がると、まっさきに見える十階建ての商業ビルに、消防車のハシゴが伸びていた。消防車が三台、通りに止まって、慌ただしく消防士たちが働き、周囲には人だかりができていた。人々は足を止めて、ハシゴの伸びた先をぼんやりと見上げている。

 あれは、火事ではございません。

 「樹」の「根」が、とうとう生き延びていたビルへの侵入を開始し、ビルの中に人が閉じ込められたのだ。
 「根」はビルの中を、ありとあらゆる穴という穴を(もちろんそこには、そこにいた人間のもつ「穴」も含まれマス)這いずり回って侵食してしまったのであるから、ビルとしてはもう使い物にならない。「根」を焼こうとすれば、ご遺体まるごとビルをまるごと解体しなければならなくなり、そして新しい建物を建てるだけの需要もないとなれば。ね。

 彼は、ハシゴに乗せられてビルの上から人が次々と助けだされてくるのを、しばらくぼんやりと眺めた。
 あそこももうダメだ。貴重な映画館がなくなってしまうのは困りものだ。あの映画館はお気に入りだった。いつ行っても客がいなくてガラガラだったので、穴場としてよく行っていたのに。

 映画館にかけるための映画は、世界中でもうほとんど作られなくなり、いつ行っても昔の映画ばかりがかけられていた。今では「映画館で映画を観る」と人に言うと、まるで犬を見るような、奇異と哀れみ、そして「仰っていることがよくわからないのですが?」の困惑の混ざったまなざしをむけられることもある。
 え?「映画館」って、なんです、か?
 とはいえ、彼が反論するなら、昔の映画の良いところは、きちんとスクリーンで映像と自分が隔てられている、ということである。ドライムスで映画を視聴した場合、不意の暴力的な映像が原因で脳障害を起こす危険性(そんなものは交通事故で死ぬ確率と同じですけど?)をいっさい気にせずに、映画を心からリラックスして観られる体験なんて、今のこの時代にあって貴重なものだと思いませんか?

 や、そんなことを言うものじゃありません。あなたは猿なのでしょうか?いや、猿だってそんな懐古趣味、いや、ただの懐古趣味じゃない、パラダイムを一つ二つ、前に戻って肯定するような、ひと手間かけたバカはしないはずです。単にバカにされるならいいけれど、知能検査に持ち込まれたらコトじゃないですか。ね。私の知ったことじゃないけど。

 このままビルが修繕され、映画館が営業再開するかどうかはわからない。おそらくされないだろう。このところ「根」の被害で空きビルが増えていて、そろそろ新宿もダメかもわからんねと言われている。大型デパートはまだかろうじて生き残っているが、雑居ビルはダメだ。「根」を焼くこともできず、そのまま廃墟化していくにまかせるだけだ。

 彼は、ハシゴ消防車に目をやりながら、新宿駅の方向に進んでいく。新宿駅の駅前は、今やかつて多く建っていた大小のビルは「根」のせいで解体され、更地になって広場と化し、ホームレスたちが集まる一帯となっている。

 もちろん公式に定められた広場ではなく、土地の持ち主がビル解体後の使い途を考えあぐねている間の暫定的な状態にすぎなかったわけだが、そこに住む家を追われた人々が住みつき、バラックを立て始め、そしてその人たち目当てに商売をする人たちが集まり、ある種のスラム街を構成し始めると、ある種の商売の匂いを嗅ぎつけた人々(マフィアと呼ばれている)は、
「立入禁止」
の立て札を焚き火にくべてしまい、自前でチャーターした重機で土地を平らにならすと、区画整理を代行した、という名目で土地の持ち主に金銭と土地の使用権を要求し、断った会社には翌日に爆発と無差別銃撃のテロを起こしたので、結果的にそこは土地の持ち主の公認で「広場」となったわけであった。

 広場には色とりどりのテントが立ち並び、多くの人がひしめいている。ホームレスの集まる広場、といっても、遠目にはやや色はくすんでいるものの、フランスのマルシェのように見える。大きな寸胴鍋から湯気を上げている炊き出しのテントや、ホームレス相手に服や古雑誌を売る人たちも露天の屋台を広げ、ちょっとしたにぎわいになっている。一種の熱気がその場を覆っている。

 彼はその場に足を踏み入れ、あたりを見回す。そこでは本当に様々なものが売っている。食品も多く出ている。おでんや煮込みといった簡単な什器に入ったものから、テーブルを出してホルモン焼き肉を食べさせる店、中には寿司の屋台や、簡単なフランス料理を食べさせる店まであり、明らかにホームレスでなく、その店を目当てで訪れたと思われる人も多い。そこでは外に出た簡易な椅子に腰をかけて、新聞を読みながらエスプレッソを飲む人々の姿もある。服も古着と思われる防寒具を売る店もあれば、外にマネキンを並べ、簡易なブティックを思わせる店もある。
 もちろん今の御時世だから、家電を売っているテントもある。冷蔵庫、電子レンジ、テレビ、カメラ、携帯電話、ラップトップコンピュータ・・・当然、ドライムスも売っている。外で電源を得る人のために、新宿区役所が一帯に無線電源を設置しているから、家電を使うには困らないのだ。ここにないのは風俗店くらいだろうが、それは単に実店舗がないだけだ。
 そこにたむろしている人たちが、ホームレスとしての住民なのか、支援団体の人間なのか、あるいは商売をしに来ている人たちなのか、外見からではまったく判別がつかない。

(つづく)


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バビロンのデイライト(連載小説)

「バビロンのデイライト」という長編小説の、第1章のみを全10回に分けて連載いたします。
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