#エッセイ 『時の流れを感じる』

 多くの人が感じているのではないかと思うのですが、人は歳を取るほどに月日が経つのが早く感じられるという感覚があります。僕も会社などで忙しく過ごしていると“ついこの間年が明けたばかりなのに、もう四月になったか・・”なんて事を毎年のように思っています。気が付けば、このまま人生があっという間に終わってしまうのではないかと少し心配してしまう事すらあります。そして、かつて自分が子供だった頃はあれだけ時の経つ速度が遅く感じられたのに、大人になればなんでこんなに早くなるのだろうかという事もよく考えていたりしています。実はその疑問についての答えを、本屋さんで立ち読みをしたことがあります。どうやら人が子供の頃体験する多くの事は初体験である場合が多く、そうなると体験するほとんどの事は刺激が大きい為に時の流れがゆっくり感じるのだそうです。それが大人になると、体験する殆どの事がすでに経験済な事が多く、この先を見通せるから時の流れを早く感じる、といった内容でした。それを読んだ時は“この感覚は逆のではないか?”と思った記憶があります。この法則で考えるなら、子供にとって初めて体験する事は刺激が強いので逆に時の流れを早く感じ、大人になって歳を取れば逆にマンネリ感覚で時がすぎるのが遅くなるのでは?と直感的には思えてならなかったのですね。でも、まぁ、その道の専門家がそう書くのだからきっとそうなのでしょう(笑)。今回は自分の子供時代に感じた時の流れに対する不思議な感覚についての話です。あくまでもこれは僕個人の感覚として捉えてください。

   僕のオムツが取れてやっと歩けるくらいになった三歳ごろ、テレビのブラウン管の中ではすでに若き日の郷ひろみさんが歌っていました。当時の記憶を辿ると、ブラウン管の奥のセピア色の映像であの当時ヒットした『男の子女の子』という歌がよく流れていたのを思い出します。この曲のリズムと歌声は僕にとってはとっても印象に残ったようで、今でもテレビで懐かしの映像として見るたびにあの頃住んでいた古い家の中の風景と一緒に思い出します。三歳といえばまだ言葉を覚えたての頃です。そして歌番組なんて当時の僕にはまだ興味もありませんでした。ですが誰から教わったという訳でもないのですが、おそらくは親が観ていたであろうテレビ番組の音楽が無意識に耳から入ってきて、歌詞の一部を自然と覚えていくのですね。ブラウン管にでる歌詞の文字は当然まだ読めないし、基本的にまだ知っている語彙も少ないので、耳だけで覚えた当時の僕は、所々歌詞を間違えて覚えるんですね。そしてチョッとデタラメな歌詞をそれなりのたどたどしいメロディーに乗せて歌いながら家の中をチョコチョコとねり歩いていると、親父やお袋がそれを面白がって、
『ん~!ナニナニ?今何て歌ったんだい?(笑)』
と耳たぶの後ろに手のひらを当てて、聞き耳を立てる仕草をしながら笑って幼かった僕をからかっていたのも懐かしい思い出です。
 まぁそんな感じで過ごしていたのですが、当時の僕にはテレビの中の“郷ひろみ”という人はものすごい大人に見えたのですね。今になって当時の映像を見れば中性的な感じがするかわいらしい十代半ばの少年だったのですが、当時の僕にはもう自分の親と同等くらいの大人に見えてしまうんです。その感覚は失礼を承知でいうと“ヘンな知らないおじさんが歌っている・・・”といったくらいの感じだったのです。あの当時の僕にとっては、この感覚はありとあらゆるところで発揮されていたんですね。例えば僕には七つ年上の従姉がいるのですが、その子が僕のお袋と話をしている姿を見たりすると、“大人のお姉ちゃんがボクにはわからない話をしている・・”という風に映るんですね。いうなれば、当時の僕には自分より四、五歳年上はもう立派な大人に見えたのです。小さな子供にとっては一歳の年の差は大きいので、それに近い記憶を持っている人も多いのではないでしょうか?
 それから六、七年たった小学校四年生の時です。実は僕は小学校に入る時から三年くらい親の仕事の関係で、海外で過ごしていました。そして数年ぶりに帰国して、久しぶりに日本のテレビを観ていた時に、あるCMにすごく驚かされたのですね。そのCMはキンチョールのスプレーのCMでした。そのCMではプロペラ式の複葉機型の戦闘機が部屋の中を飛び回って蚊を退治するといった演出になっていました。最初は“日本のコマーシャルは面白いなぁ・・”と思っていたのですが、よく見るとその飛行機にはなんとあの郷ひろみさんが乗っていたんです。そしてその郷さんがすごく若いのにびっくりしたんですね!その時に“アレ?この人すごい昔から知ってるけど全然歳を取ってないじゃん!”と思ったのです。おそらくその時の郷さんは二十代半ばくらいになっていたでしょう。二十代なんてそりゃ若いですよね。でも当時の僕は郷さんの歳なんて知りませんし、“小さな頃に観た歌番組から六~七年も経っているのに、何だったらボクの身長がこんなに伸びているのに、テレビの中のこの人は全然変わってない!”と思ったのです。“ボクなんかどんどん大きくなるのに・・、ウチの父ちゃんなんか髪の毛がどんどん抜けてハゲていくのに・・この人だけは変わらないや・・なんでやろ?”なんて思ったんですね。当時の僕は子供ですから、当然自分目線の、しかも自分中心の物の見方しかできなかったのですね。僕自身が自分の意識とは無関係に体の大きさなんかもどんどん変わっていくもんですから、自分が目にする周りの物もそれと同じくらいの速さで変わっていくと無意識的にそれを普通の事として考えていたのだと思います。子供のこのような考え方をするのは、ある意味普通の事なのではないかと思っています。その発想で考えるなら、あの時の郷さんはもう初老のおじさんになってないと当時の僕の中では納得がいかなかったのですね(失礼なモンです!)。その延長で考えると、あの当時の僕なりの矛盾を誰か回りにいる大人に質問したいと考えそうなもんですが、しかしそのことを誰かに聞いて回ったという記憶はないのですね。おそらくですが、簡単に質問をすることが出来れば親にでも聞いたのでしょうが、その当時の僕は、その事に対して的確に質問をする言葉を持っていなかったのだと思うのです。別の言い方をすると、小学四年生当時の僕は、子供としての自分なりの感覚で抽象的に、それぞれの人に起こりうる時の流れのズレをぼんやりと考えるだけで、明確な定まった疑問として言葉で捉えることが出来なかったのだと思います。質問の焦点が定まらなければそりゃそんな質問を口にする事なんてありませんからね。そしてその疑問が分からないままでも特に生活にも困らなかったですし・・・(笑)。そうなると、その手の感じで疑問に思う事は疑問のままほったらかしにしたのでしょう。そう考えると『言葉を知る』という事は大切なんですね。自分の気持ちを表現する事も、何かの物事を理解するのも人間はすべての事を言葉で捉えているという事が理解できます。その場に応じた的確な言葉を知らなければ人とのコミュニケーションすらできないという事があり得るわけですね。やはり教育を受けるという事がいかに大切かという事を感じます。話がそれてしまいましたが・・・。

 こんな感じで子供の頃の僕はそんなことをモヤモヤ考えていたのですが、これと同じ感覚を思わせる有名人がもう一人いたのです。それは“秘密戦隊ゴレンジャー”で青レンジャー役だった宮内洋さんです。ゴレンジャーは幼稚園の頃、土曜日の夕方にテレビの前で夢中になって観ていました。それを観たらお楽しみの晩ごはんの時間です。そしてその後はもちろんドリフ・・・。土曜の夕方はワクワクしたもんです。そしてゴレンジャーを観る時は毎週手に汗を握ってヒヤヒヤするんですよね。“今日はゴレンジャーが負けるんじゃないか”と思って・・・(笑)。そしていつものように敵が爆発して負けるのを見てホッとするのですが、番組の終わりに次回の予告を見ると、また変な怪人が出てくるんですよこれが・・。それを見て、“次の回まで、今度はこの怪人が街の中で暴れるんだぁ・・どうしよう・・”なんてチョッと思ったりするわけです(まぁ子供ですから勘弁してください)。そしてゴレンジャーの中でいつもかっこよく戦っていた宮内さんですが、ゴレンジャーのほかに仮面ライダーV3や怪傑ズバットなど他のヒーロー番組にも出てくるんですね。V3は小学校の頃、夕方の再放送で見ていたのですが、やっぱりその再放送当時でも映像がチョッと古く感じるのですね。そうするとやっぱりそこに出演している宮内さんが、ゴレンジャーの時と同じ若さを晒しているのです!そうです、郷ひろみさんの時と同じように“アレこの人も歳を取らないんだ?”と思うわけです。すると例の『歳を取らない人がいる問題』がムクムクと僕の中で湧いてくるのですが、そんな事をいっても基本はヒーローに夢中ですから、そんな疑問なんぞはすぐに頭の中から消えてしまうのですけどね・・(笑)
 ここから少し脱線しますが、宮内さんは僕にとっていまだに大切なヒーローです。とにかくかっこよかったですね!宮内さんは。そしてそのかっこよかった姿を思い出すのは子供時代の楽しかった事の思い出の一コマになっています。その大好きな宮内さんをまねる為に、小学生の頃近所のちょっと大きい公園で友達たちと仮面ライダーごっこなんかをするんですね。みんながV3なんかをやりたがるから敵役がいなくなっちゃうんですが、そんなことはお構いなしです。友達4、5人がめいめいの仮面ライダーの決めポーズをしながら公園の奥にある林に『トォー!』とか言いながら入っていくんです。敵役がいないから一体誰と戦ってたんだ?という感じもするにですが、見えない敵が林の中では見えたのでしょう、あの当時の僕らには・・(笑)。懐かしい限りです。今では僕の目にハッキリ、そして毎日見えている敵が会社の上司だったりするのですが、闘う勇気なんてとても、とても・・・滅相もございません・・・ハイ・・。ま、そんな事はどうでもよくて、今でもテレビで懐かしのヒーロー特集なんていう番組で宮内さんを見ると“ああ、かっこよかったな~”と思いますし同時にノスタルジーな気分に浸っています。

 そんな変な事を疑問に思っていた僕も大人になって、色んな事に自分なりの分別がついてくると、例の『歳を取らない人がいる問題』は自分なりに自然と解決していきました。その理由として考えられることは、子供の頃の時間軸と大人になってからの時間軸の違いが自分なりにですが、何となく理解が出来るようになり、たとえ自分本位の目線であっても、相対的な物の見方が出来るようになったからだと思っています。そして青年期を過ぎてサラリーマンになれば数年経過したくらいでは、そんなに自分も周りも変わらなくなりますし、時間の流れという事も子供の頃よりは的確に掴めるようになったからではないか、とも思います。それを僕の感覚的な別の言葉で掴み直すと次の様な感じになります。人間の寿命は数十年の単位であり、それぞれの人が異なるタイミングで生まれてきます。そして他人同士で重なり合う “生きている時間”を自分の立ち位置(年齢)を軸にして考えた場合、ある人は子供の時間を過ごしていて、またある人は大人の時間を過ごしています。それを自分が人生のどの立ち位置(年齢)でそれを見ているか、という事が自分と相手の年齢差を考える感覚になっているのではないかとひそかに思っています。そして、子供という立ち位置で他人との重なり合う時間を見つめると、経験値が浅いために相対的な物の見方がまだ十分に出来ない為に戸惑いますが、大人になって肉体的にも、精神的にもある程度成長し多くの経験をしてから同じ事をすると、それらを俯瞰的に、かつ無意識な感覚として自然に処理が出来るようになるのではないか、と思っています。

 ただ、これまで書いてきた年齢差の感覚のズレからはみ出してしまう問題がまだ一つありまして、自分の年齢から歳が離れた人ほど、その人が何歳くらいかという事が検討がつきにくくなるのですね。自分の年齢の前後十歳くらいなら敏感にわかるのですが、最近では制服を着た若い子が、中学生か、高校生か、また私服の若者が高校生か大学生かという事に見分けがつかなくなってきて、しまいにはスーツを着た若者がリクルートの面接に来たと思ったら隣の課の新入社員だったりするのです。そんなことを考え出すと終わらないので、その問題はまたの機会に考えます(笑)。今日は以上です。


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