見出し画像

そろそろ「アラサー」と呼ばれるようになるらしい

先月、26歳になった。

私もそろそろ、アラサーと呼ばれるようになるらしいよ

と30すぎの友達に話したら、

え、25歳からアラサーでしょ。四捨五入したら30なんだから

とアッサリ言われたのだけど、えっ、四捨五入なの?アラウンドってもう少し先では?

まあともかく、入り口に立ったということで。

「抱負」というほど大したものではないのだけど、せっかくなので「アラサー」に向けた心意気を、少しだけ。

他人の「幸せ」を測りようがない

最近特に、「他人の幸せを測りようがない」という実感が強くなってきた。

そんなことずっと前からわかっているけれど、頭でわかるのと実感するのとでは全然ちがう。

例えば先日、小学校時代の友達と久し振りに会ったときのこと。

とりとめもなく仕事や恋愛やその他いろいろなことについて話してとても楽しくて、また話そうねと別れてから、ふと思う。

昔は多くの時間や価値観を共有していた私たちがいま共有するものは、ずいぶん少なくなったのだなあと。

仕事の業種やポジション、働き方、住む場所、恋愛や結婚、家族…

異なる選択を組み合わせてそれぞれの道を歩んでいるのだから、悩みの中身も幸せの物差しも、もちろん違う。とてもじゃないけど相手の幸せをわたしが測ることなんてできない。ごく当たり前のことを、じわじわと実感したのだった。

こんなことを思うあたり、私もまだまだアラサービギナーなのだろう。

これはほんの始まりにすぎなくて、この先道はさらに枝分かれして、私たちは別の世界で生きるようになっていくのだと思う。互いにわかりえない、それぞれの「幸せ」を選んで。

その「幸せ」は、誰のものか

わかりえない、と強い言葉を選んだのは、わかった気になって相手の幸せをジャッジしないようにという、自分への戒めでもある。

欲望は常に、他人の欲望である

と精神科医のジャック・カランは言い、

人生にはめでたい日が2度ある。  一度は、生まれた日。もう一度は、“自分にとって幸せとは何かを見つけた日“。

とマーク・トウェインは言った。

2人の言葉を並べると、考えてしまう。その幸せは本当に自分のものか、他人のそれではないのか。その幸せはその人自身のものか、自分のそれを押し付けていないか。

私たちは「それって誰が決めたんだっけ」という正解にぐるりと囲まれていて、簡単に人の選択に白黒をつけてしまう。

わかった気にならない、というのは大事なことだ。

自分の感情に、居場所をつくってみる

「自分の幸せ」なんて一生かかっても見つけられるかわからなくて、ひとつひとつの場面で選択を重ねながら、ちょっとずつ更新していくものなのかなと思う。

自分の中を見つめ直して、私はどんなときに嬉しくてご機嫌なのか、どんなときに悲しくて苦しいのかを感じてみる、その過程で少しずつ、自分にとっての「幸せ」を選べるようになっていくものなのかもしれない。

嫉妬とか怒りとかイライラとか、ネガティブな感情はつい「悪いもの」として蓋をしたくなってしまう。でも実はそれらの感情の裏には自分の本音の願いや想いが隠れていて、選択をするときのヒントになる。

「嫉妬」のおかげで自分のほしいものに気付いたり、誰かへの「怒り」のおかげで「対話できる関係性を築きたい」という自分の本音に気付いたり。

感じてはいけない「感情」はないはずだから、すべての感情に居場所をつくって、素直に感じていたいと思う。

わかりえないけど、つながれる

すべての物事の延長線上には反対のものがあるように、「幸せ」の延長線上には、「苦労」がある。

自分で選んだことのなかにも当然、うまくいかないことや苦しいことはたくさんある。他人のせいにできないぶん、余計に苦しい。

自分で自分の幸せを選ぶことは、自分で自分の苦労を選ぶことでもある。

では、自分で幸せ(苦労)を選ぶことは、「孤立」を意味するのだろうか。ひとりで背負いこんで苦しまなくてはいけないのだろうか。

それはきっと違うと、これまで出会った人たちのおかげでそう思えている。

「わかりえない」という前提のもと、自分と相手の人生が交差する瞬間を見つけたり、「わからないけどわかりたい」と寄り添ったり励まし合ったりすることはいくらでもできるから。

一見「同じ」カテゴリーの幸せや苦労を経験してる人とその中身は全然違ったということはよくあるし、一見「違う」カテゴリーの幸せや苦労を経験してる人とどこかの部分で共鳴しあうことも、よくある。

辛いときほど孤独が大きくなって、周りの人が眩しく見えて自分だけがしんどいような気持ちになるものだけど、実際は、悩みなんてなさそうな人も実は苦しんでたり、それでも頑張ってたりする。

苦しみの中身は違ったとしても、それぞれの人生の「ままならなさ」を互いに労いあえるようなつながりを、ゆるやかにはりめぐらせることはできる。

だから私は堂々と自分で自分の幸せ(苦労)を選択したいし、他人とそれを分かち合いたい。わかりえなくても、分かち合いたい。

古い友達とも新しい友達とも、互いの「幸せ」を願って喜び合って、互いの「苦労」を想像して労い合って。そんなふうにして、またひとつ年をとっていきたい。

こんな、まとまったようなまとまってないようなのが、私の「アラサー」への心意気。

#バースデーエントリー #26歳 #エッセイ




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?