廉太郎ノオト書影おびあり

『廉太郎ノオト』(中央公論新社)のさらなるノオト③傑物・幸田延さんの逸話あれこれ

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 本作『廉太郎ノオト』は瀧廉太郎さんという短い生を駆け抜けた人物を主人公にしている関係から、登場人物たちの前後関係を大きくばっさり切り捨ててしまっています。だからこそ、「さらなるノオト」をいくらでも書き足せる面があるのですが……。というわけで、今回は廉太郎の先生の一人でもある、幸田延さんの話をしようと思います。

 とはいえ、基本的なことは既に『廉太郎ノオト』に書いてありますので、本作で触れることのできなかったことを少々。

 実は幸田延さん、夏目漱石さんと知り合いです。
 どうやら哲学教師であったケーベルさんを通じての知己であったそうです。こういうところからも、明治の人々は狭いところでクラスタとなっていることがよくわかるんじゃないかと思います。一説には、夏目漱石さんと延さんがケーベル邸を訪ねた際のメニューから「洋風かき揚げ」が生まれたそうですが、すみません、わたしは未確認です。

 一時期延さんが幸田露伴さんを食わせていて、露伴さんは生涯延さんに頭が上がらなかったというのも実話のようです。
 幸田露伴さんというと謹厳な性格と厳しいしつけで知られた方ですが、妹に頭が上がらないというのもなかなか面白い話ですよね。逆に言うと、世間では謹厳で通る露伴さんを圧倒するほどの謹厳ぶりを発揮していたと考えても面白いかもしれません。というのも、幸田(安藤)幸を知る方の逸話によれば、幸は先生と仰がれる立場となってもなお、延のアドバイスに対しては直立不動、絶対服従であったそうです。やっぱりすごく怖い人だったんだろうなあ。

 そして、本書では語れなかった延さんのその後です。
 彼女はしばらく東京音楽学校の教授として勤めていますが、1909年、突如教授を解任されたと新聞で騒がれます。実はこの辺りの話題は音楽史においても紛糾しているところらしく、一説によれば(というか当時のある新聞によれば)島崎赤太郎らの策動によって延が排除されたらしいのですが、別の説(というか別の新聞)によれば、教授職をやめたがっていた延の願いが通り解任されたともあります。当時の新聞のいい加減さなどを思えば後者のほうが蓋然性が高いかしらんという気がしないでもないですが、前者のほうが物語としては映えますね。
 その後延さんはヴァイオリンなどの個人教授に精を出し、最終的には皇族に音楽を教える係にまで登り、日本の音楽教育に尽くすことになります。
 ちなみに、東京音楽学校教授時代、廉太郎さんと入れ違いのように延さんの教え子となった音楽家に山田耕筰さんがいます。

 あともう一つ――。
 1916年に、延さんはある学校の校歌を作曲しています。
 この曲、どうも「荒城の月」に似ていませんか?
 こちらの曲、もしかして、「荒城の月」のオマージュなんじゃないかという説もあるのです。
 もしかすると、延さんは、廉太郎さんの名が失われていくのを惜しんだのかもしれません。実は、本作のラストである登場人物たちが述べる言葉は、延さんのこの曲の存在を知ったことも大きかったです。ああ、同時代を生きた方々にとって、廉太郎さんは大きな人だったのだなあ……。そんな気付きがあのラストに結実しています。

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