廉太郎ノオト書影おびあり

『廉太郎ノオト』(中央公論新社)のWEB聖地巡礼 東向島編

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 はい、こちらの『聖地巡礼』ですが、あと三回くらいで完了です。こちらが終わり次第、『さらなるノオト』に移行しようと思います。

 さて、今回の聖地巡礼は東向島です。

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 東向島には、一時期、明治の文豪幸田露伴が住んでいました。というわけで今でも石碑があるのですが……。
 えっ。なぜ、音楽小説『廉太郎ノオト』の聖地巡礼に幸田露伴?
 理由は簡単です。『廉太郎ノオト』に幸田露伴が登場するからです。
 幸田家というのは相当傑物揃いの家です。露伴の長兄は実業界に進み出世を遂げていますし、次兄は探検家として知られています。また弟は歴史学者です。そしてその傑物っぷりは男子だけの性質ではありませんでした。女子二人は音楽の道に進み、揺籃期の日本西洋音楽を支える人材となってゆきます。そう、それが廉太郎さんを育てた幸田延であり、廉太郎のライバルであった幸田幸なのです。
 こうして見ると、なんとも当時の人々の関係は狭いなあと思い知るばかりです。でも、それはある意味で当然と言えば当然です。まだすべての男子に選挙権を与えるという骨子の普通選挙法すら施行されておらず、実業界・教育界・政界……などに打って出るためには実家の資金力や社会的地位が必要とされていた時代でもありました。幸田家は元を正せば徳川家での取次を担っていた茶坊主の家系ですし、瀧廉太郎さんは家老の家系……、正直、『廉太郎ノオト』に登場する人物たちの多くはかなり実家の社会的地位が高い方が多いです(意外にそうでもない島崎赤太郎さんですら、大工の棟梁、しかも自ら作ったオルガンを内国勧業博覧会に出品するという、かなり先進的な家に生まれています)。

 つまるところ、明治期の日本は階級社会であったということなのです。『廉太郎ノオト』においてはかなり弱めに描写するに留めましたが、東京音楽学校に通っていた人々というのは、西洋音楽という海のものとも山のものともつかない学問・芸術分野に挑むことのできた、上流階級の人々が織りなす物語でもあるのです。

 とはいえ、幸田露伴はやや特殊な立ち位置の人物ではあります。
 一回勤めに出るものの、結局作家という浮き草稼業についた露伴は、(最終的には知識階級に落ち着いてはいるものの)上流階級からのはみ出し者という側面を有した人物でもあります。

 下町である東向島に一時居を構えた露伴の立場に思いをいたしていただけたら幸いです。

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 すっかり言い忘れていましたが、実は露伴は自らの家を「蝸牛庵」と名付けていました。引っ越しを好んだ露伴、おそらく、「家を引きずり暮らす」イメージをかたつむりに譬えたのかもしれませんね。

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