廉太郎ノオト書影おびあり

『廉太郎ノオト』(中央公論新社)のさらなるノオト⑨日清日露戦争と石野巍

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 本作であまり触れることができなかった、というより、あえて深く踏み込むことをしなかった登場人物に石野巍さんがいます。廉太郎さん死後にちょっと興味深い動きをする人物なのですが、廉太郎さん生前にはそれが顕在化していない面があるので、実は深く踏み込めなかった面があります。今日はその話をしようかと。

 明治三十年代後半、西洋音楽が発展するに従い、少しずつ庶民に西洋楽器が広がり始めます。この頃にはヴァイオリンも国産品が出始め、以前よりは庶民の手に届きやすかったようです。
 けれど、庶民(ここでいう庶民とは決して一般市民のことではなく、お金持ちのことです)は西洋音楽そのものには全く縁がなく、曲にも耳が慣れていないため、日本の音楽を楽譜にし、それを西洋楽器で弾くという動きが出始めます。
 そうした動きを経た頃、音楽家の一部がこう言い出すようになります。
「西洋音楽だけではなく、日本の音楽の良さも再評価すべきなのではないか」
 かくして、一部の西洋音楽家たちが、日本の音楽(邦楽)を西洋楽器で奏でるという和洋調和楽という運動を始めるに至るのです。そしてこの運動に、東京音楽学校を卒業後、教師として働いている石野も参加するのです。

 ただ実はこの動き、わたしは当時の世相と連動しているのではないかと思うのです。

 廉太郎さんが学生だった頃、日本は日清戦争(1894-95)を経験しています。この戦争を受けて日本は東アジアの雄国となりました。そしてその後に続く日露戦争(1904-1905)では西洋列強の一角と互角に戦ったことで、列強国家になってゆきます。
 そんな中、これまでの欧化主義的傾向に対し、疑義が唱えられるようになっていくのです。
 ロシアに辛勝し、ふと一息ついたところで、日本人はあまりに自分たちの文化がなおざりにされたことに気づいたのかもしれませんし、それまで抑圧されていた国粋的な愛国心が高まったともいえるかもしれません。とにかく、様々なところで、かつての日本を振り返るという機運が生まれます。
 明治末期から大正にかけ徳川時代の回顧が増えるのは、一般には明治維新が遠くなり患いがなくなったからという理解がされていますが、明治末年から大正にかけての「回顧」の流れもこうした伝統の見直しというムーブメントが影響していたのではないかというのがわたしの意見です。
 恐らく、廉太郎さんはこうした動きに合流することはなかったでしょう。けれど、もしも長生きしていたなら、友人である石野さん(廉太郎さんと石野さんの友人関係はフィクションではなく、実際にやり取りされた手紙も残っています)に誘われ、ピアノで邦楽を弾くようなこともあったかもしれませんね。

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