廉太郎ノオト書影おびあり

『廉太郎ノオト』(中央公論新社)のさらなるノオト⑥明治の楽聖を共同制作した男、鈴木毅一

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 2019年、瀧廉太郎さんの自筆楽譜「憾」が発見されたというニュースが配信されました。

 正確には、一度紹介された憾の原稿楽譜が「再発見」され、竹田市に寄贈されたというのが本当のところなのですが、いずれにしても良質な史料が見つかったというのは大変素晴らしいことです。瀧廉太郎さんは結核でお亡くなりになられたため、菌の伝染を恐れ、家にあったとされる手紙類や楽譜はほとんど燃やされたという経緯があって、明治期の人であるにもかかわらず細やかな事実はあまり分かっていません。もしかすると、明治の楽聖瀧廉太郎の新事実がこの史料群から明らかになるかもしれませんね。
 と、それはさておき。
 実はこの史料、ある人物のご子孫の家から出てきました。
 「瀧廉太郎の傍にこの人あり」とまで言われた、鈴木毅一さんです。
 実際、今日の瀧廉太郎さんの高名のいくばくかは、この人物に関わっています。

 詳しくは『廉太郎ノオト』本編を読んでいただきたいのですが、彼は東京音楽学校在学時、廉太郎さんと出版社とを引き合わせ、「花」などを含む組曲『四季』や、東くめの夫の依頼に従い作った『幼稚園唱歌』刊行の協力を行なっています。もちろん、瀧廉太郎さんといえば『箱根八里』であり『荒城の月』なので、鈴木毅一さんがいなかったからといって廉太郎さんが無名人に落ちてしまうわけではないでしょうが、「明治の楽聖」のイメージを広げた仕事をしているという意味でも、いい仕事をしているといえる人物なのではないでしょうか。
 実際、ものすごく仲の良い友人だったようで、在学時代はずっとつるんでいたらしいです。とはいえ、卒業後は音楽教師として就職後、休職して東京の学校に入り直し、英語などを学んでいる形跡もあるので、必ずしも音楽だけに興味があった人ではないようです。それから彼は教職に身を捧げる人生を送りますが、大正年間に病に斃れます。日本音楽史においてはほとんど足跡を残していない人物とも言えましょう。
 でも、わたしはこうした人物にこそ興味があります。
 歴史を追っていくと瀧廉太郎さんのような綺羅星に興味が向かいますが、その綺羅星の横でわずかに瞬く星の輝きにもスポットを当てたい。鈴木毅一さんは目立ったことはしていませんが、廉太郎さんの才能を紹介することに熱中していた時期がありました。その時の彼の思いはどんなものだったろうか。わたしは案外、そうやって小説を書いています。

 あー、そうそう。これはあんまり知られていませんが、瀧廉太郎さんの肖像画として名高いこちら

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は廉太郎さんの帰国を記念して横浜で撮られたものなのですが(これも本編で書きましたね)、

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 実は鈴木毅一さんと二人で写っている写真であったりします。病に侵されて帰国した廉太郎さんを迎えた鈴木毅一さんも、何か期するところがあったのかもしれません。
 明治の楽聖を支えた男、鈴木毅一。彼の遺品から廉太郎さんの「憾」原稿楽譜が出てくるのは、必然ではありますが、ロマンティックにも思えますね。

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