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『新歴史・時代小説家になろう』第4回「なんでもいいから書きたい時代の時代劇、歴史ドラマを見てくれ」

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 前回はやや剣呑な話をしましたが、今回からはゆるーくやっていこうと思いますよ。というわけで、よろしくお願いします。

トイレで使うスッポン

 ところで皆さん、トイレが詰まった時に使うスッポン、あれ、何て名前かご存じですか? ですです、棒の先に半球状のゴムがあって、トイレの穴に差し込んでスッポンスッポンやるとトイレ詰まりが解消されるあれです。あと、どういう働きによってトイレの詰まりを解消するかもご存じですか? と話を振っておいてすみません、わたし自身知らないので、今ちょっと調べてみますね。
 オーケーグーグル。「トイレ、スッポン」で検索だ!
 えっ、何? あれって「ラバーカップ」っていうのか。
 じゃあ、今度は「ラバーカップ」で検索!
 ほう、英語圏ではプランジャーともいって、ゴムの力で配管内部を負圧にすることで詰まっているものを流動的にして、つまりを解消するわけね。わかったよ、ありがとうグーグル!
 ……飯を食べながらこれを読んでいる皆さん、本当にごめんなさい。特にカレーだった人には本当に申し訳ないと思ってます。
 えっ? この寸劇、歴史・時代小説を書くことと何の関係があるのかって? おおありなんですよ。

人は知らないことを描写できない

 よくわたしが小説講座でお話しているのですが、人間の知覚は三つのフェイズがあります。

理解:ある物事を他人に説明できるくらい把握している
知覚:そうした概念、ものが存在することを知っている
不知:存在すら知らない

 基本的に物事の把握は「不知」→「知覚」→「理解」の順に進みます。
 で、ここからが大事なのですが、小説に事物を書き入れる際、「不知」の状態では絶対にそれを描写することはできません。そして、できることなら、「理解」したものを中心に小説を構成していった方がいいですし、「知覚」しているものを「理解」の側に寄せる必要があります。
 
ここで注意していただきたいのは、小説を書く際、「知覚」レベルの理解度であっても小説に取り入れることは可能だということです。
 たとえば先にわたしは「トイレのスッポン」について書きましたが、皆さんの多くにはわたしが何を言わんとしていたのか伝わったんじゃないでしょうか。実は、書き手側が「知覚」レベルの理解をしていても、文章内で表現することはできるのです。
 でも、わたしが水洗トイレの存在しない場所で暮らしているとかで「トイレのスッポン」の存在すら知らない場合はどうでしょう。そもそも、こうして話に出すことはできませんよね。
 つまるところ、小説を書こうと思う方は、できる限り「不知」の領域に分け入って「知覚」以上のレベルに引き上げ、できることなら「理解」まで引き上げてやる必要があるのです。

時代考証本は「知覚」を「理解」に引き上げる本

 今、世の中には数多くの時代考証本が溢れています。そうしたものを読めば、確かに時代考証の知識を知ることができます。なのですが、その本にはその本の範囲があります。いくら「すべてを網羅」と謳っても、網羅しきることは不可能といっていいでしょう。それに、時代考証本の多くは、

「これ、存在は知っているけど、そういうものだったのね!」
「ああ、時代劇に映っていたこれって、こう使うものだったのか」
「あの野菜はこの時代にないのね」

 という風に、「知覚」を「理解」に引き上げる性質の本なのです。もちろん「不知」の段階から一気に「理解」まで引き上げることはできなくもないですが、かなりエネルギーを使う行為になることでしょう。
 そのため、これから歴史・時代小説を書きたいあなたは、もうワンクッション、手間をかけていただきたいのです。

そこで、映像作品だ

 皆さんは、時代劇とか歴史ドラマ、歴史マンガなどは御覧ですか?
 もし観てない方は、今からでも遅くないのでぜひ視聴してみてください。どんな作品でも結構です。一般に「時代考証が怪しい」と噂されている作品でも結構ですし、アニメ作品でも結構です。
 なぜ映像作品かというと、こと背景においては映像作品の情報量が桁違いに多いからです。
 小説はその性質上、人間関係や精神状態の描写が得意で、逆に視覚的情報が制限される面があります。それに対して映像は視覚的情報の受け渡しに優れているので、眺めているだけで様々な事物が目に入ってきます。
 例えば小説では「母屋の三和土で草鞋を脱いだ」とだけ表現するところで、映像作品だと竈の様子や当時の道具類や三和土そのものの様子などといった情報が一瞬で目に飛び込んできます。その中には、あなたがこれまで「不知」の領域に置いていた何かが気にかかってくるかもしれません。この瞬間、「不知」であったものが「知覚」の対象へとグレードアップされたのです。
 その上で、時代考証本を手に取ると、非常に勉強になりますよ。

「へー、この描写は時代考証正しいんだ!」
「ああ、あの作品に出ていたあれ、この本にも出てる!」

 こんな調子です。

 今回の更新で申し上げたいことは、時代小説、歴史小説の対象となる事物は現代人にとって「不知」の領域に近いものばかりのため、まずはこれを「知覚」の段階にまで引き上げなければなりませんよ、ということなのです。
 その方法論の一つとして映像作品に当たってみましょう、というのが今回のわたしのご提案なのです。

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