信長様はもういない書影

「比較級」しぐさ

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 『廉太郎ノオト』の販売の際、わたしは「音楽の素養はさっぱりありません、楽器は弾けません」と明言してきました。実際わたしは音楽教育は(小中学校を除いて)ほとんど受けていません。
 なのですが、この前、たまたまギターを前にする機会に恵まれ、昔の杵柄でちろちろ弾いていたら、妻に驚かれました。

「あれっ、お前、楽器弾けないって言ってたから全然期待してなかったけど、それなりに弾けるじゃん!」

 いやいや、そんなことはないのです。
 わたしが弾けるのはコード弾きまでで、リフに関してはかなり練習しないと弾けませんし、ギターソロとなってしまうともはや絶望的です。じゃかじゃかやる分にはそれなりに……という感じですが、それは「弾ける」とはちょっと違うんじゃないか、そんな気がしています。
 でもこれ、稀によくある現象ですよね。
 わたしは「歴史、そんなに詳しくないです」とよく吹聴しているのですが、世間一般では詳しいとされる人間のようです。

 つまるところ、「詳しい」「詳しくない」という言葉は比較級的な言葉なのです。
 「詳しい」「詳しくない」の間には暗黙の了解として比べる相手が存在し、その存在を頭に思い浮かべながらジャッジメントするわけです。
 わたしの場合を例に挙げると、

「(ギターソロがバンバンできる人と比べれば)楽器が弾けない」

 ですし、

「(本職の学者さんや超絶詳しい人に比べればはるかに)歴史に詳しくない」

 なのです。
 つまるところ、「詳しい」「詳しくない」というジャッジメントには必ず話者の想定する基準が存在するという話です。言い方を変えるなら、この言葉は話者の想定する基準が存在して、その基準を見抜かないと絶対的な位置を取り違えてしまう危険がある、ということです。

 そういう意味では「上手い」「下手」も、話者の想定する基準が存在するという面において、「詳しい」「詳しくない」とよく似ている気がします。

 そして、言葉に鋭敏な方であったり、ある種のクラスタの方だと、過度に基準値を高くして謙遜することがあります。
 わたしはこれを「比較級」しぐさと呼んでいるのですが、これを多用していると、色んな意味で自らの立ち位置を見失ってしまう危険があるなあとここのところ思っています。
 たとえば、わたしは「(ギターソロが弾ける人と比べて)楽器が弾けない」わけですが、妻に「夫は一切ギターが弾けない」と誤解されていたわけです。自分でしっかり立ち位置(コード弾きくらいはできるよ)を理解していればいいんでしょうが、この「比較級」しぐさを多用するうちに、自分の本当の座標を見失ってしまう危険が無きにしも非ずだなあと思います。

 ギターの場合は技術の塊なので、割とその習得具合でクンフーを見切ることができますが、対象があやふやであればあるだけ、自らの「比較級」しぐさに飲み込まれがちなのかもしれません。

 とはいえ、「比較級」しぐさは便利ですし、少なくとも日本社会においては便利なので手放すことは出来ませんが、わたしとしては「そういった厄介な話法を使っている」自分がいることを自覚しておきたいと考えています。

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