廉太郎ノオト書影おびあり

『廉太郎ノオト』(中央公論新社)のさらなるノオト⑦教育者養成学校だった? 東京音楽学校

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 東京音楽学校は、今でいう東京芸術大学の音楽学科に相当します(というより、東京音楽学校は東京芸大の前身校の一つと表現した方がよいかもしれません)。そういう風に書くと、芸術家の養成学校だったのかとお思いの向きもあるかもしれません。けれど、どうも廉太郎さんが所属していた頃の音楽学校は随分ノリが違ったらしいぞ、というのが今回のお話です。

 本編でも書きましたが、廉太郎さんが本科にいた頃、東京音楽学校は高等師範学校の付属校扱いでした。高等師範学校は旧制中学校の教諭を輩出する学校でした。その学校の付属校であったということはどういうことかというと、東京音楽学校は芸術家を輩出する学校ではなく、むしろ教育者を輩出する学校であったということが言えるのです。
 廉太郎さんと年が近い本科生たちのその後を追ってみると、教職の道を選ぶ人がとにかく多いです。先日お話した鈴木毅一さんも教職に身を捧げますし、本編に登場した杉浦チカさんも本科卒業後に教師の道に進み、赴任先の女学校で三浦(柴田)環を見出すのです。また、廉太郎さんと一緒に『幼稚園唱歌』を作った東くめさんも、やはり教職の道に進んでいます。実は、東京音楽学校が教育付属校でなくなってしばらくしてから、芸術家としての音楽家たちが何人も巣立つようになってゆくのです。この経緯を見ると、やはり、高等師範学校から独立を果たしたのはある意味で正しいことであったと思われます。

 ただ、瀧廉太郎さんが高等師範学校の付属校で、途中で付属から外れるという激変期に東京音楽学校にいたことには一定の意味があったのではないかというのがわたしの考えです。

 廉太郎さんの遺した曲の多くは、難解さとは程遠い、親しみやすいものばかりです。もちろんこれは彼の作曲家としての実力を示すものでもあるとは思うのですが、一方で、彼の興味の一方に「教育」があったのは間違いないと思うのです。というのも、廉太郎さんが書いたと思しき『幼稚園唱歌』の序文には、教育に対する思いが書かれています。
 廉太郎さんの生きた時代はまだまだ西洋音楽は一般的なものではなく、何とか人々に根付かせようとしていた模索期でした。芸術家的な素質を持ちつつ、けれど周囲の環境が純粋な芸術家の存在を認めなかったぎりぎりの時代だからこそ、廉太郎さんの親しみやすい歌曲が生まれたともいえるのではなかろうか、というのが、今のところのわたしの感想なのです。

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