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作家という『登場人物』の価値を毀損しない振舞いみたいな話②

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 前回

 の続きなんだぜ。

 前回の趣旨は、小説家がSNSなどで発言を繰り返していくうちに、実際の自分とズレたキャラクターがそこに立ち上がり、参照されていきますよ、というお話でした。そして、ときとしてキャラクターと自分の乖離が発生し、場合によると二者が齟齬が来たしますよ、というところまでです。

 これって問題なの? という方もいらっしゃることでしょう。
 でも、実はかなり問題です。

 小説家がある種のキャラクターとして消費されるということは、その文脈に沿った発言しか求められないことを意味します。実際に即していえば、「これまで積み上げてきた発言から想像されうるキャラクターからはみ出さない形で発言し続けなければならない」ということです。SNSなどで小説家が何かを発言するということ自体、ある意味で自身のキャラクター化への道を歩んでいることになる、ということと同義なのかもしれません。

 実は、「芸能人や小説家が政治的なイシューを話すこと」への忌避感が一部にあることについてずっと考えていたのですが、おそらくそれは、芸能人や小説家といった人々がキャラクターとして扱われているからと考えるとすっきりするんじゃないか、そんな気がします。
 確かに、アニメを見ていて、突然その登場人物が本筋(とわたしが信じる展開)を無視して「〇〇法に反対します」と言われたら嫌だもんなあ、と気づいたわけです。 
 ただこの気づきは恐ろしいことでもあり……。
 つまるところ、SNSなどの場においては、作家の発言は一人の人間の発露ではなく、キャラクターのセリフのように扱われている、ということになるからです。
 しかしながら、わたし自身、他人のSNSでの発言をキャラクター的に理解している面がないかといえば、そうでもないわけで。
 ブラウザ越しに流れてくる言説の主のほとんどは、会ったこともない人の意見です。逢ったことある人や友人のアカウントならそんなことはありませんけど、圧倒的多数の中の人を知らないアカウントについては「このアカウントは大体こういうことを言うだろう」と予測しながら(あるいは諦めながら)お付き合いをしている面があります。そこにはある種の一貫性を期待しており、そこから外れたことを発信した時には「あれ、いつもと違うけどどうしたんだろう?」とズレを感じてしまいます。

 普通に考えて、他人に一貫性を求めること自体がおかしいんです。
 人間はそもそも一貫性がないんですから。
 一貫性を人に求めること自体、ぶれのないキャラクターとして期待している面があるということなのかもしれません。

 というわけで、次回に続く。

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