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プロットについて思うこと、2021年夏

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 今、Twitterではプロット(小説の設計図)を巡る話が盛り上がっており、色んな作家さんがご自分のプロットを紹介しておられます。

 いつもならこの手の話に乗るわたしこと谷津ですが、今回はどうも乗り遅れてしまい、草葉の陰で歯噛みしています。
 実は今、わたしが頭を悩ませていることの一つがプロットなんですよ。
 なので今日の話は、プロット談義に見せかけたわたしの愚痴です。

瞬発力、みたいな話

 アマチュア時代はほとんどプロットを立てない作家でした。なのですが、デビュー時、プロットの有用性(主に編集者さんとの意思疎通)に気付き切るようになり、今に至っています。作家として色々気になることがあって、どんどんプロットを複雑化させつつ、登場人物の履歴書などもまとめていざ執筆に当たっているのですが、最近、そのやり方に疑義が出てきたんです。
 端的に言うと、「書きながらの想像力」が衰えてきた感があるな、と。
 小説を書いていない方にはご理解いただけないかもしれないんですが、第一稿を書くことによって立ち上がる細部が小説を規定することって、ままあるんです。そして、その細部に身を任せ、時にプロットという地図を眺めながら微調整していくのが第一稿という作業なのですが、詳細なプロットを書きすぎると、今ひとつ、細部で遊ぶ、というか、その場限りのスーパープレイを抑え気味にしちゃうきらいがあるんです。
 こいつぁよくないなー、と谷津は思うわけです。
 アマチュア時代にはあった向こう見ず精神はどこいった!?
 あと、実はここのところ、作家としての自信が少し付いてきたということもあります。今のわたしなら、割と即応しながら物語を紡ぐことができるんじゃないか、そんな気がしているんです。
 次出る幕末の本はあんまりプロットを切ってません。ちょっとした挑戦ではあるのですが、それでもかなり上手くいったので、意外に出たとこ勝負いけるんじゃなかろうか、そんなことを考えているのです。

プロットが意味をなさなくなってきたぞい


 谷津はデビューから一貫してプロットに対してあるルールを課しています。

 プロットよりも面白い展開を見つけたら、容赦なくプロットを捨てる

 若書きの頃はそうでもなかったんですが、最近、かなりプロットからの逸脱が見られるようになりました。どのくらいかというと、少し前から書いているある原稿については、全体構造が大幅に変化するレベルでの逸脱となりました。
 歴史小説は歴史というプロットに従っているはずなのにどうして?
 いえいえ、なぜかというと、演出の関係なんですよ。面白い演出法を見つけてしまったりして、プロットとはまるで違う見せ方になってしまうことも多々あります。
 そんなわけで、当初用意したプロットが紙くずになることも多々あるんですね。

第一稿前の窓としてのプロット

 ただ、プロットには意味があると考えています。
 編集者さんとの意思疎通としての意味は依然としてありますし、何より、第一稿より前に自らが作ろうと考えている世界を覗くための窓としてプロットは有効なのです。
 仮に、第一稿を書いてみてプロットから大きく逸脱があったとしても、事前にプロットを作ったことによりイメージがより強固なものとなった結果であるという可能性もあります。
 プロットは事前に高いところに登っておくための梯子みたいな役割もあります。
 人間の脳はメモリ容量の小さいパソコンに喩えられます。メモリが小さいとタスクを沢山捌けないので、計算を小分けにしてやっていく必要があるのです。小説という複雑怪奇なものを形にするにあたり、頭のメモリを節約し、いざというときの大波に耐えうるような遊びを持っておくためにも、プロットを事前に作り、容量を食わないようにしておく必要がある、そうわたしは考えます。

色々言ってはみたけど

 たぶん、プロットについてはある程度高度化させていかなくてはなるまい、と考えてます。
 瞬発力を大事にすればするほど、事前に捌けることは捌いておく、という態度を取らざるを得ません(わたしの場合は)。そのため、今まで使っているプロット関係の書類を大幅に見直して、新たなかたちを模索しなければならない時期なのかもしれません。
 というわけで、上記に挙げた皆さんのご意見を参考にさせていただきますよ!

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