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【21世紀的フランス革命の省察2パス目】誰が「ブルジョワ革命論」を始めたのか?

こちらの投稿の補足。

19世紀後半の欧州では、本当は何が起こっていたのか?

フランス革命とマルクス主義の関係についての「その筋」の認識は、意外と共産党機関誌「しんぶん赤旗」が情報源として役立ちました。逆にいうと、そういう話を語り継いでるの2020年段階ではもはや日本共産党くらいしかなく、それも2010年代の記事という有様…

日本共産党の社会科学研究所の不破哲三所長が『空想から科学へ(1880年)』が『反デューリング論』という論争の書から生まれた当時の背景を説明し、「マルクスやエンゲルスが、科学的社会主義のあらましをまとめて書いた貴重な本」と紹介しました。「エンゲルスはこの本で現代の社会主義の源流をフランス革命に求めており、1840年代に社会主義の道を歩き始めたマルクスにとっては、フランス革命はつい40年ほど前の世界史的事件でした。この革命の大筋をつかむことが、この本を理解しやすくします」とのべ、フランス革命の概略を講義しました。

しんぶん赤旗「不破哲三所長の古典教室」要約

なるほど「カール・マルクス(Karl Marx, 1818年~ 1883年)の思想」とフランス革命はフリードリッヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820年~ 1895年)「空想から科学へ(Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft, 1880年)」段階でもう、そう規定されていたと。一応、マルクスまだ存命中…

そして、そもそも当時の革命論について語ったマルクス、エンゲルスのまとまった著作はなく、エンゲルスの「マルクス『フランスにおける階級闘争』1895年版への序文」がそれについて詳しく語った唯一の論文である、と。

エンゲルス自身が、自分たちが若いころに考えた革命論のどこが間違っていて、それをどのように発展させてきたのかを、歴史のなかで語っている貴重なもので、それだけに「マルクス、エンゲルスを歴史の中で読む」ことが大切だと強調しました。「1895年8月に亡くなったエンゲルスが同年3月末に書き上げた、いわば“政治的遺言”といってもいいもの」とのべ、本文の説明に入りました。

しんぶん赤旗「不破哲三所長の古典教室」要約

で、その具体的内容はというと…

1848年の二月革命当時、マルクス、エンゲルスはどんな考え方でドイツやヨーロッパの革命にのぞんだか――。

マルクス、エンゲルスの当時の考えの基本は、(1)革命の起こり方、進み方はフランス型、(2)革命の最終目標は今度はプロレタリアートの社会主義革命、というものでした。

フランスでは、パリで始まった二月革命がわずか3日で勝利し、オーストリアでも、ベルリンでも民衆が勝利しました。

決起した労働者への武力弾圧でパリの街が血に染まった48年の六月革命のあとも、マルクス、エンゲルスは「いよいよプロレタリア革命への接近が始まった」との考えにとらわれていました。

やがてドイツでの革命が敗北し、2人はイギリスに亡命しましたが、「彼らは一時の後退にすぎないと思っていました」。

革命が終わり、50年夏ごろからイギリスで好況が始まりますが、マルクス、エンゲルスは「革命の波の間」だと考え、「長期戦の構え」に入ります。エンゲルスはマンチェスターで工場経営に参加してマルクスの生活を経済的に支え、マルクスはロンドンで経済学の研究に没頭しました。

「新しい革命は新しい恐慌に続いてのみ起こりうる。しかし革命はまた、恐慌が確実であるように確実である」。これが2人の共通する考えでした。

ここで不破さんは、待望の恐慌が起こった57年、エンゲルスがマルクスに送った手紙を紹介。恐慌で荒れる取引所に通い、「恐慌は僕の体には、海水浴のようによく効きそうだ」と恐慌を待望して、革命の準備に思いをはせる手紙を読み上げると、会場から驚きの声と笑いがあがりました。

しかし、恐慌が起こっても、革命は起こりませんでした。この体験が、革命への見方を変える転機になりました。

エンゲルスは、当時をふりかえりながら、「情勢の見方が間違いだった。また革命闘争の条件が変わり、時代おくれになった」と分析します。

しんぶん赤旗「不破哲三所長の古典教室」要約

以下の投稿と時期的に重なる話。

歴史研究が進んだ結果明らかとなった1948年革命の実態は以下のようなものでした。

①農奴状態からの解放を勝ち取った小作人にとっては大勝利。職業選択の自由を得た彼らは棄農して炭鉱や工場で働く労働者となり産業革命を加速させる(地域によっては家族が工業団地で産業作物を育てたり家畜を飼う半自作農状態だったりした模様)。

②一方、彼らが抜けた穴は後進国からの出稼ぎ小作人がすかさず充填。領主が経営する農場はそのまま何の問題もなく存続。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus,1904年~1905年)」の中で、南北戦争中に奴隷解放宣言を喰らった南部奴隷制農場主に仮託して思いっ切り当て擦ったユンカー階層が思った様に滅ばなかったので、マックス・ウェーバーは死ぬほど悔しがったに違いない。

③一方、目的を達した小作人が離脱した後に(やはり後進国からの出稼ぎが多い)都心部労働者の蜂起は容赦無く殲滅。労働者と農民の間に分断を招き、そのルサンチマンが後の民主集中制の発想の萌芽を招いたとも。

そういった景色がマルクスやエンゲルスの目には「1848年のフランスでは、プロレタリアといっても主力は裁縫師や靴工といった職人的な労働者だった。ほんとうのブルジョアジーとほんとうの大工業プロレタリアートが現れたのは1970年代に入ってからだった」と映っていた模様。

産業革命を経て60~70年代に経済発展をとげ、ヨーロッパの様子が変わっていきます。「48年のフランスでは、プロレタリアといっても主力は裁縫師や靴工といった職人的な労働者でした」と不破さん。70年代になると「ほんとうのブルジョアジーとほんとうの大工業プロレタリアート」が生まれ、この二大階級の闘争が全ヨーロッパに広がり、運動の性格が違ってきました。エンゲルスは「強力なプロレタリアート軍さえも、いまだにその目標を達成していない…1848年にたんなる奇襲によって社会改造に成功することがいかに不可能であったかを決定的に証明するものである」と書きました。この時期、ドイツでは、プロイセンでもオーストリアでも反動的な絶対君主がその支配力を復活させていました。フランスでは、共和制が倒され、ボナパルト帝政が生まれました。しかし、どの反動体制も、社会発展の法則には逆らえず、ゆがんだ形態や方法ではありましたが、資本主義の新たな発展とドイツ統一に道を開きました。48年の革命を葬った勢力が「その革命の遺言執行人」となったのです。労働者の運動の側では、64年には、労働者の初めての国際組織、インタナショナルが生まれ、マルクスも参加して革命運動の灯台の役割を果たすようになります。「資本主義は衰退ではなく、経済革命の時代を迎えた。労働者の運動も本格的な階級闘争の段階に入った。2人は、これぐらい深刻な自己検討をしたのです」と不破さん。『資本論』についても、最初は昔の革命の考え方で書き始めましたが、第1巻の原稿を4回書き直し、10年間で資本主義観、革命観を変えながら67年に書き上げました。「経済学を学ぶときも、そういう目でみることが大切です」と力を込めました。

しんぶん赤旗「不破哲三所長の古典教室」要約

そして統計学が発達して社会調査が定期的に遂行される様になった結果、それまでそれぞれの国を支えてきた伝統的地域共同体の解体が観測される様になり、そうした推移を見守る為に1990年代に入るとフランスやドイツに「社会学(Sociologie)」なる学術分野が勃興したという次第。マルクスやエンゲルスの思想が次第に時代分析に役立たなくなっていく一方、1859年認識革命当時はマルクスのパトロンだったラッサールらが開闢者に名を連ねる社会民主主義概念が各国で普及。なるほど、それが「その筋」では「1848年革命の遺言執行」と解釈されている訳ですね。それでは「その筋」の大元とは?

ソルボンヌ大学発の正統派革命史観?

フランソワ・フィレのフランス革命論
引用元、情報量が多過ぎて全体としては何を言わんとしてるのかさっぱりですが、薄ぼんやりながら「ブルジョワ革命史観はフランス革命をロシア革命に繋げようとしたソルボンヌ大学の正統派革命史観の牙城で、ソ連が崩壊した1989年以降、影響力を喪失」みたいな景色が浮かび上がってきました。もはやほとんど創作の世界…

政治思想史、フランス革命史およびフランス革命の研究史(史学史)を専門とし、恐怖政治を「革命からの逸脱」として論争を巻き起こした『革命(La Révolution, 1965年)』、革命の「脱神話化」を目指す『フランス革命を考える(Penser la Révolution française, 1978年)』、革命を「現象」として捉えた『フランス革命事典(Dictionnaire critique de la Révolution française,1988年)』などを著した。

上掲Wikipedias「フランソワ・フュレ」

どうやらフランス革命とマルクスの関係について検索するとやたらとでてくるフランスの歴史学者フランソワ・フュレ(François Furet,1927年~1997年)こそが恐怖政治を「革命からの逸脱」と言い出した台風の目玉っぽい。 で、マルクスのフランス革命観の復元を試みたとされるのが「マルクスとフランス革命(Marx et la Révolution française,1986年)」である模様。(棒読み)。多分、一生読まない…

こうした歴史的流れがあって、やっと以下の記述が可能になった感じ?

(1793年夏から翌1794年夏までの一年間は)「革命政府の時代」もしくは「山岳派独裁の時代」と呼ばれる時期で、対外戦争と国内の反革命反乱に対処するために、ロベスピエールを中心とする公安委員会が独裁的な権力を握り、反対派を次々とギロチンで処刑した、恐怖政治の時代である。従来は、すでに述べたように、フランス革命がもっとも急進化した時代として注目され、この時代があったからこそフランス革命が「典型的な市民革命」になったのだと考えられてきた。しかし、共和国の樹立という観点から見ればこの時代は、内外の戦争に対処するために臨時の一時的措置を取らざるを得なかったが故の停滞期であったと言えるだろう。

山﨑 耕一. シィエスのフランス革命 「過激中道派」の誕生

ニューアカブーム時代にこうした話を耳にする事はありませんでした。余程タブー視されていた証? ちなみに私が「恐怖政治は革命からの逸脱」と考える様になった契機は「オーストリアが産んだ知の巨人」シュテファン・ツヴァイクの評伝「ジョセフ・フーシェある政治的人間の肖像( Joseph Fouché, 1929年)」だったりします。

日本だとその前日譚的に発表され、池田理代子の漫画「ベルサイユのばら(1972年~1973年)」に下敷きを提供した事で有名な評伝「マリー・アントワネット( Marie Antoinette, 1932年)」の方が有名ですかね。冒頭の序文に「フランス人が描くフランス革命史観は信用ならないからオーストリア人の私が書く」と断りのある、曰く付きの作品…

なお、このシュテファン・ツヴァイクなる人物、ユダヤ人ゆえに第二次世界大戦が始まるとナチス迫害を避ける為にブラジルに亡命。現地でカーニバルの熱気に飲まれ、大日本帝国軍がシンガポールを陥落させたというニュースに接して「私の知ってる古き良き欧州はもう戻ってこない」と絶望感に捉われて奥さんと心中してしまったのですが、その後、実際の欧州がどうなったかというと…

「フランス人の私が日本のアニメで育ったらこうなった」
「フランス人の私が日本のアニメで育ったらこうなった」
「フランス人の私が日本のアニメで育ったらこうなった」解説
「フランス人の私が日本のアニメで育ったらこうなった」解説

恐るべき「資本主義の挽臼」…そういえば「レ・ミゼラブル」をミュージカル化したのも英国演劇界で、それを映画化したのもオーストラリア映画界でしたね。こうして自国文化をまともにマネタイズ出来ない国はそれについて自ら語る権利すら奪われてしまう展開に…

なお「シュテファン・ツヴァイクが最後には勝った」動かぬ証が「暖冬台に登ったマリー・アントワネット妃の髪は一夜にして白髪となった」伝説の世界中への流布だったりします。彼の評伝以外にその言及はなく、しかも本文中でちゃんと「確かに白髪に見えなくもない小さな晩年期の肖像画が1枚残されていて、それから生まれたデマ」と謎解きされてるのに、堂々と漫画化したりアニメ化したりしちゃったもんだから取り返しのつかない事に…

なんか想定してたより随分長文となったので以下続報…

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