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朝ドラ「らんまん」と健全な科学

朝ドラの「らんまん」を見ています。

先日の放送で研究倫理についてちょっと気になることがあったので書いてみました。ちなみにこの記事は7月28日時点での展開をもとに8月2日の夜に書きました。それでも一部7月31日〜8月2日の展開も入っています。

何があったのか

まずドラマ内の出来事をざっくりと時系列で整理します。

(承前)万太郎は小学校も出てないが,植物の知識の高さや,土佐の標本を自作していたことなどから東大植物学研究室への出入りを田邊教授に許されていた。

  1. 万太郎が面白そうな水草を見つけた

  2. 万太郎はこの水草が何なのかが分からなかったが,田邊教授がダーウィンの著作にあるミズナモと指摘し、初出となる本を教えた(ミズナモは1属1種という珍しい植物)

  3. 田邊教授は論文を書くよう万太郎に指示し、万太郎は論文を書き上げた

  4. 田邊教授は論文が教授との共著ではなく単著だったことに怒り,出入り禁止と万太郎の集めた土佐の標本を研究室に残すよう言った

みんなの感想に違和感

ドラマ放送後の「あさイチ」(7月28日)では出演者による感想コメント,いわゆる朝ドラ受けの時間があります。28日の放送では「名前ぐらい入れたらよかったのに」と言っていて、まずはこれに驚きました(雑な書き起こしです)。

大吉 7月28日のあさイチです。
華丸 ほらー
鈴木 華丸さんが言ったとおりの
華丸 牧野牧野言うからですよ。ひとりでも「教授っ」って言っときゃいいのにさ
大吉 まあまあ。教授がねこう,ああなるとちょっと
鈴木 ちょっと可哀想。名前入れてあげてもよかったんじゃないかなあっていう

それで確認するとTwitterでも万太郎の落ち度というような反応があり,さらに驚きました。私(言語学専攻,共著論文・共同発表あり)から見た反応への違和感も少しコメントの形で付けます。

プロフィールに「化学系の団体」に所属とあるので,共同発表や共著論文の経験はあるのかなと推測しました。後で述べますが,分野によっては「ちょっとコメントすれば共著」ということも習慣化されているので,「ルール違反」と言ったのでしょうが,そこまで簡単に一般的に語ることもできる問題じゃないのでは?と思いました。

夫の方もわりと共著論文,共同発表へのハードルが低い分野なんだと思いますが,同じく一般的に「やってはいけないミス」だったかというと違和感が大きいところです。

この方は文筆活動をされていますが,論文などではないようです。「万太郎の落ち度」というのが「社会的」か「個人的」かで変わりますが,おそらく前者,つまり他の人から見ても良くないことをしたと評価したんだと思います。

誰が共著者になれるのか?

論文の共著者(共同発表者も含む)になる基準はけっこうあいまいだったと思います。私も論文を書くようになってから軽く20年ほど経ちましたが,たぶん15年ぐらい前と今でも意識の差はありそうです。まして明治時代の基準となるともう分かりません。ただ、少なくとも上で言及していた皆さんは「現代の目」で見て発言しているでしょうから,私も私なりの現代の目で書いておきます。

『科学の健全な発展のために』を見てみる

日本学術振興会では「科学の健全な発展のために-誠実な科学者の心得-」という冊子を作成し,研究倫理の教育を行っており,現代の研究倫理のある種のスタンダードとなるものです。

この中に様々な事例や考え方が紹介されており,今回問題になっている共著者の基準についても言及があります。そこでは「国際医学雑誌編集者委員会(International Committee of Medical Journal Editors:ICMJE)の投稿統一規程」の4つの基準を紹介しています(太字は私)。

  1. 研究の構想・デザインや,データの取得・分析・解釈に実質的に寄与していること

  2. 論文の草稿執筆や重要な専門的内容について重要な校閲を行っていること

  3. 出版原稿の最終版を承認していること

  4. 論文の任意の箇所の正確性や誠実さについて疑義が指摘された際,調査が適正に行われ疑義が解決されることを保証するため,研究のあらゆる側面について説明できることに同意していること

そして,「すべての条件を満たすことがオーサーシップの条件であり,逆に,以上の条件を満たす者については著者として記載されなければならないとしています」と言及しています。

今回の田邊教授は植物の種類を言い当て,適切な文献情報を出しています。時代背景を考えればこれはなかなか他の人にできることではないので,1の研究の分析(植物の種の同定)に寄与していると言えるでしょう。しかし,論文の著者名のことを知らなかったことから,教授が原稿を読んでいないことは明白です。そのため2,3の条件を満たしているとは見れないでしょう。なお4はこの段階では分かりません。

以上のことから,田邊教授は一定の貢献をしているけど,著者として名前を入れるには不十分ということになります。つまり,共著者に教授を入れなかった万太郎に落ち度はありません。ドラマではこのあと名前を入れて雑誌を刷り直していますが,それを勝手に万太郎たちがやったにせよ,実質的にプレッシャーをかけていることから,教授のやっていることはギフトオーサーシップの要求とも言えるでしょう。

なお,「標本を置いていかせる」行為は教授と出入りを許された人という力関係を利用したハラスメントだとみなされても不思議ではありません。

「指導」や「助言」は貢献とみなすか?

そもそも教授が言い当てることで研究はたしかに大きく進みましたが,これは指導の一環であって貢献と見なすことは不適当ではないのかということも気になります。

このあたりは完全に分野によって慣習の違いがありますし,論文の量によって研究室の価値が決まる(私から見ると不健全な)文化ならそれも「戦略」の一環としてはしょうがないんだろうなというぐらいには思います。

ただ万太郎は指導学生ではなく許可を得て出入りしている人というところが問題を難しくさせていると思います。それは学生ではない人に自分の知識から情報を与えて研究を進めさせたことが貢献としてはより大きいと言えそうだからです。もっとも,余裕がないなあとは思いますが。

さらに,田邊教授は日本植物志図譜を出した万太郎に対して「植物学者とみなす」と言っており,これは学生とは別の身分と考えるというわけなので,そこを考えるとあの助言が貢献となるかを考えるときに難しくさせます。

今の目でかつての行動の倫理を語る難しさ

このように,「科学の健全な発展」という「今の目」で見ると田邊教授の行動はギフトオーサーシップを求めるもので,それを考えると万太郎が共著者に田邊教授を加えなかったことは「落ち度」と言えません。でも,少し言及したとおりこれは「今の目」であって,それでもって田邊教授の行動を批判していいのか,万太郎をこのような形で擁護していいのかはちょっと悩みます。

倫理観や常識は時代で変わるもので,当時の教授絶対という時代なら,それぐらい「察する」という考え方もありえるでしょう。ただ,ドラマでそれが名前を入れる形にして表すのが常識だという考えは十分に示されてはいなかったと思います。前に徳永助教授が万太郎に「感謝して書きなさい」と言ったのも,共著者にすることで感謝を示せということではないでしょう。

もっとも,教授の貢献はあったのだから、何かしらの言及があってもよかったというのは当てはまると思います。当時,論文に謝辞をつける文化がどれだけ一般的だったかはわかりませんが、今最大限に気を使うなら、注をつけてミズナモと指摘したのが教授だと言及した上で、謝辞を付けるところでしょう。でも,繰り返しになりますが著者に入れるには貢献が足りないのは変わりません。

今の目で昔のことを見るのは難しいけど,オーサーシップの問題は「ちょっと」で扱うものではない点はあらためて強調します。

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