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面白さはどこで作るか?

大学で専任として教えるようになってから大体15年ぐらい経ちました。授業もそうですし,科学コミニケーション活動というか,学問を一般向けに届けるような活動も意識して取り組んでいるつもりです。ただそういうことやってる中で疑問に思うところがあり,ちょっと備忘録として,今の考えを記しておこうかなと思いました。

今回書いてから読みなおすとまとまってないなあと思いながらの公開です。

分かるための面白さ?

今回扱うのは教え方を工夫して授業を面白くすることで,学生や生徒が分かるようになるという考え方です。授業でも一般向けの解説なんかでも,「教え方が良くない」という言い方を聞くことがあります。もっと興味を持てるような題材やエピソードを用意するとか,メリハリをつけて話しましょうみたいなこともそうですし,スライド作りの工夫なんてことも言われます。

私自身この考え方については分からんでもないところありますし,授業はともかく出張講義などではけっこう仕掛けを作ったりします。ただ一方で本当にそうかな?反対に分かるから面白いという可能性はないのかなというのがいつも気になります。

分かったから面白かった

あくまで個人の経験ですが,私が言語学に興味を持ったきっかけは,学部時代の恩師の早田先生の授業でした。もともと別の先生がやっていた1年生の日本語学概論などで言葉を分析的に見るのを面白いとは思っていたんです。それでも早田先生の授業はお世辞にも上のような意味でうまいとは言えなくて,先生は楽しそうに話すんですけど,わりと思いつきで言ったり(実際先生がそう言ってた)していて,付いてきている学生どれがいいのかなという感じはけっこうしました。事実,そのおかげで試験前は私のノートのコピーが大変よく売れました。

でも分かんないなあと思いながら,頑張って理解しようと思って聞いてノートを取る中で,どこかで分かったって感覚が得られたり,そんな考え方したことがなかったってことを知ることで,途端に授業がすごく面白いものになりました。

言語学概論で覚えているのは「父親が息子を東京へ行かせた」というような使役の文について次のような簡略化した樹形図を書いて2つの文として考えるみたいなことを言ったのですかね。

これはまさに「考えたこともない」発想だったのでとても衝撃を受けました。

面白さの犠牲?

また,YouTube何かの学術系YouTubeなどでは面白いエピソードがたくさん用意されています。それ自体は悪いことではありませんが,正しさを犠牲にしていることがあったりします。細かい話をここでするつもりもないので,そのひとつとして以下の一連のツイートを紹介するに留めます。

分かりやすさと正確さはある面でトレードオフの関係にあるのは否定できません。要はどこまでそれを許容するかという問題でもあるでしょう。ただ,その自覚は持っておきたいです。

専門家のお仕事

また,「間違ってないことだからつまらない」なんていうの因果関係はありません。そこを区別してしっかり話ができるっていうのが専門家に求められており,言い方を変えれば専門家だからできることだと思います。

つまり専門的な文献を読んだりして,内容の妥当性が判断できるというのは,それなりにトレーニングを積んだ専門家なんだと思います。そういう意味で分かるというイメージを持たせることに力を入れすぎるのも問題でしょう。

ちなみに私の授業は「レポートの書き方に焦点を当てて日本語のリテラシーを高める授業」です。こういう授業で面白さっていうのは正直なかなか難しいです。特に文章書く人がのが嫌いな人にとってはなかなか苦痛なものでしょうし,どうしても「正しい書き方」みたいな話になりがちです。またその中で別に興味もない論文を読んだり,新書読まされたりもするわけで,それを考えると面白さというのはかなり捨てている面はあると思います。

もちろん別に僕もそれは諦めているとかではなく,扱う対象,例えば読む文章だとか,小さな成功体験を作るとか,そういうことで少しでも書くことの楽しさを伝えて行ければとは思っています(できていませんが)。

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