「ニンジャスレイヤー 」輪廻転生の輪(後編)

承前

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後編、と言いつつあまり連続性のない話となる。

個人を規定するもの

仮に個々の人間同士に肉体的、物質的な差異が無いのだとしたら、個人を分かつものは何になるだろう。これは肉体を自在に選ぶことのできるサイバーパンク世界観において特に顕著な話である。

これはニンジャスレイヤー本編で明確な回答がある。


つまるところ個人を規定するものはカラテ、何を拒絶し何を選び取るかであり、個性は装束、メンポ、武器、名前に集約される、つまり外見と能力、名前で判別される、ということだ。

しかしそれだけで個人が完全に分断されるわけではない。ファッションや文化によって似た格好をすることはあるし、遺伝によっても見た目は伝わる。名前も意図的に過去の偉人と同じ名前をつけることは古今東西良くあることだ。

人間は個性的でありたい、他者とは違う何かでありたいと願いながら、他者と繋がっていたい、同じでありたいというせめぎ合いの中で生きているのだ。

ニンジャとは何か

個性がカラテ、外見、能力に集約されると言いつつ、実はこれらは真に個人に属してるものではない。これは「ユニーク・ジツ」がクランやニンジャソウルを規定する、文字通り固有のものでありながら、他者に譲渡が可能なものである、ということにも現れている。

矛盾していると思うかもしれないがそうではない。実は個性や人格といったものは複製可能であり他者に譲渡が可能なものなのである。

そしてこれが「ニンジャソウル」であり「ニンジャ」を規定するものだ。周囲の環境、世界から分離するような強烈な個性や人格(ミームともいう)が大量に集まって一つになったもの、それがニンジャなのだ。

こう考えると、ニンジャに子は成せない、赤ん坊はニンジャになれない、というのは至極当然に思える。なぜなら生まれたばかりの赤ん坊は個性など持っているはずもないし、ニンジャが何かの手段で肉体を複製してもそれはそのニンジャにとってのスペアパーツ、リソースが増えるに過ぎず、独立した一個体にはなり得ないからだ。


自然現象とニンジャ:「隕石が落ちてくる」と「隕石を落とすニンジャのジツ」との違い

ニンジャは強烈な個性や人格が集まったもの、と言ったがそれではそもそも「人格、人間」とはなんだろう。通常であればホモ・サピエンスという生物種だ、と返す事が出来る。しかしサイバーパンクにおいてはそうはいかない。なぜなら肉体をサイバネティクスに置換し、機械そのものとなってしまうこともザラだし、非ホモ・サピエンスを知性化して時に人間以上の知性体にすることもあり得るからだ。これは先ほど言った「個性や人格が複製可能である」と言ったことにも通じる。何も複製先はホモ・サピエンスのニューロンに限った話ではないのだ。それでは人間以外の周囲の環境に接続し、自在に操ることが出来たら…?

それがジツである。

強大なジツとカラテの持ち主は周囲の環境と一体化する。これは体をアンコクトンそのものと化したデスドレインであったり、炎と一体化したイフリート、鉄条網と化したアナイアレイターなどに通じる。ザ・ヴァーティゴの言う「高度に極まったジツはカラテと区別がつかない」とはこれだ。

では、ニンジャならざる我々モータルにとって「隕石が降ってくる」と「隕石を降らすジツ」の違いは何か?

それはコミュニケーション可能性、アイサツであり、さらには対峙する相手として認識できるか、敵として立ち向かえるか、と言う事でもある。ハリケーンが単なる自然現象であるなら憎むことも戦うこともできない。だがそれがニンジャのジツであれば戦うこともできるし勝つことだってできるかもしれないのだ。


コミュニケーション、アイサツ

コミュニケーションこそが自然現象とニンジャを分かつ境界だと言った。であればコミュニケーションをしなくなったニンジャはどうなるのか?

これはイヴォーカーを見ればわかる。言葉を失った彼は「獣」すなわち自然現象そのものと化してしまったのだ。逆に言えばアイサツが成立すればその時点で自然現象もニンジャとなりうる。これは明らかに人間とは程遠いカンゼンタイや電脳生命をニンジャと定義したグリーンゴースト、果てはイチロー老人と接触した「ナラク」にも言えることだ。


言葉と物語と意味と世界

自然現象とコミュニケーションを取る、と言うことはすなわち周囲の環境と世界そのものに名前を与え、意味を与えると言うことだ。

本来世界はただ存在するだけであり、そこに意味を見出すのは観測者たる我々個々人である。当然そんな世界の意味など一朝一夕に得られるもではなく、大抵は誰かの受け売りをそのまま使うことしかできない。これこそが神話でありまさに個人を規定するものであり、ニンジャソウルだ。

ニンジャソウルは個人の力を拡大し、人間の内面と周囲の環境、ミクロコスモスとマクロコスモスを一致させる。この内面と世界の一致こそが「世界に意味を与える」と言うことであり、現実において神話や物語が果たしている役割なのだ。


死と復活

人が世界に与えた意味は死後も残る。それは呪いでもあり、ある種感染するウイルスと言っても良い。人が世界に与えた意味、ミームを払拭しようとするなら、それに感染した人全員を隔離し、殺害する必要がある。しかしそれは現代社会においてあまり現実的とは言えないだろう。つまり現代において、どれだけ思想や神話を殺そうとも必ずそれを引き継いだ誰かが現れる。

この「似た思想、似た外見、似た名前を持つ誰かがいずれ現れる」と言うことこそが死者の復活であり、輪廻転生なのだ。

前半で述べた新たな創作の余地の枯渇、ネットワークによりすぐに情報を調べることができるようになった現状と輪廻転生はイコールなのである。

特に太古に死に、忘れ去られ、捨てられた物と現在における敗北者が接続し、同一のものとして復活すること、これがニンジャスレイヤーにおける憑依、復活が表現している物である。


ニンジャとは、世界の円環構造、輪廻転生を個人の肉体の中にミクロに再現したものであり、それ自体がニンジャスレイヤーという物語構造を表した最小の類似構造なのだ。

スシッ!スシヲ、クダサイ!