「ニンジャスレイヤー」輪廻転生の輪(前編)

久しぶりにニンジャの考察を追加してみる。

今回は特定のキャラクターというよりはニンジャスレイヤーという物語構造そのものについての考察である。
そもそも物語とは、いや言葉とはなんだろう。
人間は自分の認識によって世界を形作っており、それぞれが同じものだという保証はない。現状、脳の電気信号を直接観測する手段が無い以上、他人が何を考えているか直接判断するのは不可能である。

しかしそれでも人間の認識の差異は無視できると仮定して、人間は類似する現象に対して類似する反応を返すだろう、という想定の元に現象のパッケージ化を行った物が言葉であり物語なのだ。個々人の差異を超えて共有できる概念をイデアとか元型とか言ったりもする。(この辺の哲学については詳しくないので突っ込まれると困る)

人間同士にそんなに差が無いとするならば、古代から連綿と続いてきた神話や物語と現在我々が親しむ作品にさほど差など無いのではないか。もはや真に新たな創作の余地などは無く、我々の創作物、人生自体が有限のパターンの繰り返しに過ぎないのでは?という考えが生じる。

もちろん過去が現在と全く同じということは無く、過去の積み重ねの先に現在があり、最新の映画が太古の神話と全く同じということはあり得ない。しかし作者であり観客たる人類の脳構造がさほど変化していないことを考えると、やはり共通する要素はあるのだ。それがニンジャスレイヤーにおいてコトダマであり、ソウルと呼ばれる物の存在である。

物語はどんなものであっても、読者が理解できる存在でなければならない。しかし理解には既存の何かに当てはめる必要があって、斬新さを目指しているとどんどん読者からは理解不能なものになっていくというジレンマがある。映像作品であれば解像度を上げるなりSFXを使うなりわかりやすい発展の余地があるだろう。

しかし文字媒体において新しい表現を目指すのには限界があり、小説はどうしてもどこかで見た展開が目立ちやすい。インターネット検索で大量の情報にアクセスできるようになった現在ではなおさらである。そこであえて明示的に「過去作品から引用している」と示したものがリアルニンジャの逸話であり、ニンジャソウル憑依なのだ。これはTYPE-MOONのFateにおける英霊も使っている手法だ。

この「物語世界の外からリソースを持ってきている」というのは作中の憑依ニンジャが常人には不可能な力を振るうことであり、ニンジャスレイヤーという作品が外部の作品を引用している、というメタ的な状況との対応でもある。本来であれば膨大な文脈と歴史の上で成り立っている物語を「能力」「キャラクター」として誰から見ても分かりやすくモデル化、単純化してしまうのだ。これは現実世界において新たな単語、言葉が生まれるプロセスでもある。

ニンジャソウルが我々の現実世界の過去、歴史を縮約したものだとしたら、我々の知らない歴史、忘れられた、認識されなくなった世界を縮約したソウルだったり、これから起こる出来事や並行世界を縮約したソウルもあっていいのではないか。これらはおそらく前者がナラク・ニンジャであり後者がザ・ヴァーティゴが憑依させているエメツ・ニンジャである。さらには、これまで膨大に蓄積されてきた「ニンジャスレイヤー」の物語、これを縮約したソウルも存在すべきであり、それが「ダイ・ニンジャ」なのだろう。

物語を書き、終わらせるということは新たな世界を創造し、終焉させることに他ならない。そこで各エピソードが半独立しておりながら「ニンジャスレイヤー」というタイトルを冠することのできる理由は、ニンジャスレイヤーという登場人物が共通して存在する世界を描くからであり、ニンジャスレイヤーが異なる世界同士の楔となっているからだ。こう考えると、ニンジャスレイヤーは「過去の世界」「現在の世界」をつなぐ楔であり、過去の世界、忘れられ否定された世界の代表者と考えることができるだろう。

ニンジャスレイヤーは憎悪、拒絶の象徴であり、自己と他者を分かつエゴ、カラテの権化である。この「他者を拒絶する」「この世との接続を切断する、殺す」という最も単純なコミュニケーションは誰もが共通して行う行為だからこそ、逆説的にモータルの共通意識となり得るのだ。

スシッ!スシヲ、クダサイ!