いつか薄っぺらくない言葉を話すまで

自分の言葉が薄っぺらいと感じ始めたのはいつからだろうか。

どこかで聞き齧った定説や、世故にたけた言い回しの貯蔵量が、閾値を超えたあたりから、だろうか。

もう随分とたくさんの、言葉を入れ、出してきた。その総量が、本当ならあるはずのものおじや、本当に言いたかったことなど何も言えていない悔しさを覆い隠してしまったかのように。

どんな時でも、スラスラと言葉は出てくる。だって、そうだから。そういうものだから。もう知っているから。あのときああだったから。どうせこうだから。

言の葉は、心の奥深くに根をはってなどいない。それは浮草のように、心の表面をただ虚しく漂っている。その言葉が、わたしの本当の願いに向かって私を導いてくれるのかどうかも、もうわからない。

高校球児が甲子園に行きたいと願うような、そんな真っ直ぐで真っ当な願いをもう私は忘れた。夢はもう、ない。

あるのは、ただ積み上げてきた現実と、今積み上げている現実と、これから積み上げていくつもりの現実だ。

そう。わたしは、大人になってしまった。

大人になってしまったのだ。

大人は、願うより前に言葉を吐き、現実を動かす。夢を見る前に、自分のかたちをいつのまにか変えようとする世間を押し戻す。

あるいは、高校球児のその夢すら、本当は世間が見させただけのものかもしれない、なんてことすら、思う。彼らの涙を画面越しに見て涙するとき、この涙が誰かの意図によってもたらされたものだと気づいている。

そう気づきながら「感動的だね」と言葉を発するとき、言の葉はやはり心の表面をうつろに漂う。

夢や願いや感動。それらが舞い飛ぶ中空を、大人はもう、心に持て余してはいない。代わりにぎっしりと、現実の記憶や決意が詰まっている。その心は、果てしなく重い。その心に比して、言葉はあまりに軽い。

気づいたら、周りは社長だらけになっていて、作為とカネの話をしている。
できるかもしれないことを思い浮かべるよりも、できないと思った方がいいことがわかるようになった。戻らない時間への絶望と後悔を、せめてこれ以上増やさないために。

大人は飲み込む。大人は理解する(あるいはしたふりをする)。心が弾むように新鮮で、どこにでもいけるような気がしたあの頃を、時折、ほんのかすかに思い出す。大人は理想など理想に過ぎないと知りながら、理想の未来を語ったりする。薄っぺらい言葉で。

この大人期を生き抜いたら、いつかまた、薄っぺらくない言葉を話せるようになるだろうか。心に詰まった重いものが消え去って、中空の心をまっすぐに降りて底に根ざす、浮草ではない言葉が口をついて出てくるだろうか。


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