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【短編小説】海の怪物


青白い満月がこの上なく美しい。
月光が一筋の光となり、静かな室内に差し込む。

清楚なレースのカーテンがふわりと海風になびいた。
ほのかな磯の香り、波の音が遠く聞こえるロマンチックな夜。

「あなた」

暖かい眼差しを向ける。
彼の元へ歩んで、そっと屈み込む。

私は今、もしかしたら裕人さんと結婚してから一番興奮しているかもしれない。

本当の意味で私だけのものにできた。
高揚感、ほんのりと体温が上がったのを感じた。


彼の視線が小刻みに泳ぐ。
怯えた目で私のことを見る、心から愛する人。

怖がられるのは少し不快だった。でも、確かに今は仕方がないのかもしれない。
そのうちに、きっとすぐに悔い改めるわ。

あなたには私。
そして私にはあなたしかいない世界でこれからずっと暮らすの。

「裕人さん、愛しているわ」

軽く触れるだけの口付け。真っ白なチャペルを思い出す。

私の唇を受けて、小動物のように震えるあなた。
愛おしくて、憎らしかった。


あの暖かい光に包まれた日を覚えているでしょう?
照れくさそうにキスをしてくれた。

永遠の愛を誓った。

それを破ったのは裕人さんなのに…。


結婚して2年。
子供こそできなかったものの、円満で幸せな家庭を私たちは築いていた。
休みの日には手を繋いでショッピング。記念日や誕生日には素敵なディナーや旅行を楽しんだわ。

それぞれ定職についていたので収入は安定していて、去年は2人の夢だった海沿いの一軒家を購入した。
二階建てで、寝室の窓からは海原がよく見えるの。
もちろんローンはあるけれど、これからも2人で支え合って頑張ろうね。って。

まさに薔薇色の人生を謳歌していたのよ。

2日前、裕人さんの浮気を目撃してしまうまでは…。


茜色に染まる夕暮れの街。
会社から帰る途中でスーパーに寄った。今日は彼の好きな唐揚げにしようと、朝に見たチラシで鶏肉の特売広告を出していたいつもと違う店に行ったの。

仕事帰りのサラリーマンや買い物袋を下げた主婦が行き交う雑踏の中。
見覚えのある後ろ姿。
裕人さんだ!声をかけようとしたすんでの所で、私の見ていた世界がフリーズした。

旦那の隣にひとりの若い女。

あろうことか女は裕人さんの腕に手を絡め、なんの権利があるのか、彼にキスを強請っていた。

理解を超える光景に、まばたきすることも忘れていた。
生唾を飲み込む。

小柄な女の身長まで少し屈んで、なんの躊躇いもなく裕人さんはそれに応える。
それはそれは嬉しそうにはしゃぐ女の頭を撫で、2人はまた人混みの中へと消えていった。

一瞬で。こんな小さなことで私の幸せは地に落ちた。

口の中がからからに乾いている。
今見たものがなんだったのか、そんなこと考えたくもなかった。

涙と震えが止まらなかった…。


悪い夢であってほしいと願ったのに、22時を回った頃に帰ってきた彼は「同僚と飲んでて遅くなった」などと適当なことを言っていた。
すっかり冷えた唐揚げにラップをかけて冷蔵庫にしまう。唐揚げは心なしか悲しそうだった。

背広を脱いだ瞬間、漂う女の移り香。
私のつけないバニラのような甘ったるい香水の匂いに、とうとう堪忍袋の尾が切れる。


深夜、酒を飲んだ彼が深く眠ったのを確認してから、その両腕を適当なロープで縛った。

途中目が覚めなかったのは幸いだったが、最後に一段ときつく締めてベッドの足に巻きつけた時、その痛みで目を覚ました彼は、状況を把握しきれていない寝ぼけた顔で間抜けな声を上げていた。


それから、もう48時間が過ぎようとしていた。

浮気を認めた彼はすぐに謝った。
しかし私の気はそれだけでおさまらず、人道に反した〝監禁〟という蛮行を実行している。

はじめこそ低姿勢だった裕人さんも、5時間経った頃には怒りを露わにした。
こんな事をして満足か!お前は正気じゃない!

いいえ、間違っているわ。怒っているのは私の方。

満足なものか、正気なものか。
あなたのせいで私は狂ってしまったのだから。


セイレーンという化け物の事を思い出した。
船乗りの前に現れ、美しい歌声で魅力する。それを聞いた男たちは頭がおかしくなって海に落ちて死んでしまうのだとか…。

私はあなたの人生の海原で、目の前に現れたセイレーン。
耳元で愛を囁き、その心を仄暗い海の底まで誘う。

そこで永遠に暮らすのよ。
他の誰もが入る事を許されない、私たちだけの世界で。

「もう、助けてくれ…」

ひどく乾いた声だった。
抗う力も残っていないのだろう。力なくこうべを垂れて、小さく懇願する。

ねえ、わかってよ裕人さん。

あなたには誰も触れさせたくないの。
脳裏に焼き付いた女の顔が剥がれてくれない、私にはこうするしかないのよ!


愛を誓い合った日。
世界に光が溢れて、誰からも祝福されたあの日。

今は青い水面の遥か下。
これから私たちが過ごすのは、藍色に満ちた2人の深海。

もう、誰にも邪魔はさせない。


ひとつ季節が過ぎた頃。
日本中を震撼させた衝撃的な怪事件を誰もが知っていた。

『監禁心中!!寝室から新婚夫婦の遺体が見つかる』

ワイドショーでは連日その話題ばかりが取り上げられる。
閑静な住宅街にはパトカーが何台も乗り入れ、マスコミや野次馬が次から次へと押し寄せた。

海沿いの新しい一軒家。
玄関の大きな額縁の中で微笑むのは、晴れ姿の若い夫婦。

ウェディングドレスの美しい新婦は、こんな結末を思い描いてなどいなかっただろう。
ブーケを胸に、きらびやかな笑顔を招かれざる来客たちに振りまいていた。

哀れな怪物の亡骸は、愛する男の死体にぴったりと寄り添っていたのだという。


End. 2019.05.06

3つのお題をテーマに執筆《深海》《藍》《光》

物好きの投げ銭で甘いものを食べたい。