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【ピリカ文庫】楽譜 【楽譜】【ショートショート】

「♪♪♪~」
…だめだ。また間違えた。手からとめどもなくあふれてくる手汗をぬぐいながら、優子はため息をつく。
小学1年生から小学6年生の現在まで続けている、ピアノのレッスン。
6年続けているにも関わらず、残念なことに優子にはピアノの才能がまるっきり無かった。上達はせず、次の演奏会を最後にピアノは辞めることにしていた。
才能が無い上に練習嫌い。
それでも続けて来れたのには理由があった。

「そろそろ由紀子先生が来られるわよ~!」
母の声に、練習が上手くできていないことも忘れて、優子は思わず笑顔になってしまう。

ぶおぉぉーん

外から大きめのエンジン音が聞こえる。優子が窓から覗くと、家の前に鮮やかな真っ黄色のオープンカーが停まったのが見えた。夏の真っ青な空の下に、黄色がよく映える。
優子は、お気に入りの鏡を見ながらいそいそと前髪を整え、玄関へと急いだ。

「こんにちは〜」
玄関に、明るくて涼やかな声が響く。
「こんにちは」
由紀子先生の顔を見てうれしくてにやけそうになる。それを無理に抑えながら、優子は挨拶を返した。

一番最初のレッスンで初めて先生を見た時、優子は顔を真っ赤にしてしまった。
真っ白な肌に、美しいロングの黒髪がなびき、キラキラした大きな瞳に、とびっきりの笑顔。おまけに、すごくいい匂いがする。
優子は今までの人生で、こんな素敵な女の人は見たことがなかった。

『どうやったらこんな女の人になれるんだろう…』
先生の姿を見ながら、優子は考える。

「前回はここまでだったよね?」

そう問いかけられて、優子はあわてて言う。

「あっ、はい、ここまででした!」

「優子ちゃんったらボーっとして〜。好きな男の子のことでも考えてたんじゃない?」

そう言うと、先生はクスクス笑った。

先生は、見かけが華やかなだけではなく、中身も華やかだった。レッスン中もいつも会話を盛り上げてくれて、時には恋の話もした。

「じゃあ、ここから弾いてみましょう!」

先生に言われ、さっき練習で弾けなかったところを弾いてみる。…やっぱり同じところでつまずいた。鍵盤の上は手汗でべちゃべちゃだ。
優子は物心ついた時から、緊張すると手の汗が尋常じゃないほど出る。これは、優子の練習嫌いの一つの大きな原因になっていた。
そんなべちゃべちゃな鍵盤を物ともせず、先生は涼しい顔をして「ここはね…」と、つまずいた所のお手本を弾き出した。
先生は本当に優しい。手汗だらけの鍵盤なんて、絶対に気持ち悪いはずなのに。いつも、全然気にしない風でレッスンを進めてくれる。優子は、レッスン中はいつも、申し訳無い気持ちと嬉しさと感謝の気持ちでいっぱいだった。

先生のお手本を見てなんとか弾けるようになり、レッスンが終わった。
レッスンが終わると、先生が口を開いた。

「今日は、一つ報告があるの」
先生は、急に改まった顔になり、恥ずかしそうに言った。
「私、結婚することになりました!」
その言葉に優子は、思わず身を乗り出す。
「えっ、おめでとうございます!!!」
普段の優子からは考えられないほど大きな声を出したせいで、先生も一瞬大きな目をもっと見開いて、次の瞬間笑い出した。
「優子ちゃんの、そんな大きい声初めて聞いたよー!私のほうがビックリしちゃった!」
先生と結婚するなんて、どんな男の人なんだろう。
優子はどうしても気になって、先生にせがんでスマホで写真を見せてもらった。写真には、爽やかでカッコいい男性が写っていた。
『なんてお似合いなんだろう!』
優子は、なんだかワクワクしてきた。
先生は、今回の演奏会を最後に、ピアノの先生を辞めるということだった。
「一緒に卒業だね」
先生は少し寂しそうに笑った。

1ヶ月後のレッスンの日。
どんより曇った空で、今にも雨が降り出しそうだった。庭に咲いた向日葵も、うなだれている。今日は由紀子先生もオープンカーの屋根は閉めてるだろうな。そんなことを考えていたら、先生がやってきた。
「こんにちはー!」
元気な挨拶が響く。
今日は、演奏会目前のレッスンだ。
「ここ、もう一回弾いておこうか」
楽譜をめくりながら、先生が言う。今日は、心なしか先生の顔色が少し悪いように見えた。
「ハイッ!」
優子が元気良く返事した次の瞬間、

ぽたっ

何かが楽譜の上に落ちた。
ギョッとして、楽譜を見る。
楽譜を持つ、先生の指が震えていた。
「ごめん…ごめんね…」
先生は、小さく肩を震わせた。
優子はどぎまぎしながら、
「あっ、私また手から汗が出てきちゃった。すいません、ここから弾きますね」
と口早に言い、演奏を始めた。

その演奏は、まるで自分が演奏したんじゃないみたいに素敵だった。指がびっくりするくらい滑らかに動いて、ノーミスで演奏を終えることができた。

静かに演奏を聞いていた先生は、
「…優子ちゃん、バッチリじゃん!」
と嬉しそうに言ってくれた。
恐る恐る先生の顔を見ると、向日葵みたいに満開の笑顔。…そして、一筋、涙の跡が残っているのが見えた。その後は何事も無かったかのようにレッスンを終え、その後の演奏会も無事に終えることができた。先生に何があったかは、結局聞けないままになっていた。

中学生になった優子は、忙しい毎日を送っていた。
どんよりと曇った夏の日、久しぶりにピアノを弾いてみる。やっぱり上手くは弾けない。
楽譜をめくると、一箇所シワシワになっている部分があった。
「これ、あの時の…」
『由紀子先生、どうしてるかな…』
あの時のことを思い出しながら、優子は切ない気持ちになった。
台所から、母の声が聞こえてきた。
「優子〜、由紀子先生から暑中見舞いが来てるわよー!」
それを聞いて、優子は台所へダッシュした。
葉書を見ると、女神みたいなウェディングドレス姿の由紀子先生。そして、その横にはスマホで見せてもらった爽やかな男性がタキシード姿で隣にいた。

ふと外を見ると、空はいつの間にかすっかり晴れ渡っている。庭の向日葵は青空の下、輝くように咲いていた。
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