頭の中の試行錯誤を楽しもう

6月頃から始めた、単なる雑談をする取り組み「しゃべり場」を「シグモイド会」と名付けました。その由来は、下記のnoteとなります。

長いのでざっくり要約すると、「シグモイドのグラフって、xの値が大きくなって早く増加すること心待ちにしてるけど、そうなるのに時間がかかるのなら、いっそのことグラフが立ち上がる前段階の時間を楽しまない?ということです。つまり、シグモイド会の本名は、シグモイド(の立ち上がりを速くするのではなく、地を這っている時間を楽しむ)会なのです。決して時代に流されるように、立ち上がりを速くするわけではないです。頭の中の試行錯誤を楽しむのです。

さて、先日7/25に開催した会では、参加者が12-14人くらいでした。
いつも参加して下さる方々に加え、大学の先生、本の編集をやられている方(話したの5年ぶりくらい)なども参加してくださいました。

初めましてどうしの人3、4人ずつで集まってもらい、例のごとくただただ雑談をしました。以下、僕が参加したグループの分だけですが、記録しておきます。

リモートワークという名の「どこでもドア」

就職活動をしているある学生Aさんは、家の自分の部屋でオンライン面接を受けるが、OffとOnを分けたいため、面接モードにうまく入れず結構困っていたとのこと。その学生さん曰く、「移動の時間は自分自身のモードをOffからOnへ持っていくための、心が切り替わるための時間なのだと思う」とのこと。つまり、ある場所から別の場所へ移動する時間というのは、前者から後者への意識の変化をもたらすという機能がありそうです。あながち重要な用事をはしごする際の移動時間は必要悪なもので、意識の変化にとって合理的なのかもしれない。

これとは別に、会が終わった後にメールをくれたある学生さんが教えて下さった感想がありました。それは、以下のようなものでした。

「この会が対面の会だったら終電の時刻も心配しないといけないし、家に着くまでの時間もかなり掛かってしまいます。しかしながら、終了と同時に次のことができるので時間がとても有効に使えるなと思いました。例えば、18時まで授業を受けて、18時からオンラインバレエのレッスンなんて今だからできることですもんね。どこでもドア使ってるみたいです。」

「どこでもドア」という表現、言い得て妙ですね。ドラえもんで目にするどこでもドアは瞬時に別の場所に行ける便利な秘密道具なわけですが、その本質は、次の瞬間に別の場所にいられるということですね。同時性とでも言えるのでしょうか。つまり、2つの用事の間に移動時間が必要ないという点では、オンラインで事を進めることも同様です。それは確かに「どこでもドア」を手に入れていると考えることができますね。

面白いのは、「気持ちを切り替える時間を必要としている学生Aさん」と、「どこでもドアを使ってすぐに次の世界に行きたいBさん」、その違いは正確というよりも、今置かれている状況なのでしょうか。それは、やらなければならないことと、やりたいこと、という捉え方の違いなのでしょうか。またお話しても面白いかなと思いました。

先のAさんの話を聞いて、他の参加者の方が「OffモードとOnモードが分けられない状態で否応なしに訪れるオンライン面接は、状況が変わってもパフォーマンスがどれだけ落ちないか?」を暗に見られているのではないかと抽象化されていました。なるほどそういう側面から見ることができるのかと。目から鱗ですね。
もちろん採用側はオンライン面接に切り替えざるを得なかったわけで、それを意図しているわけではないだろうと思います。しかしながら、テレワークができることが明らかになってしまった仕事について、上記のファクターが(意図的ではないにしろ)評価に影響を与えるかもしれません。それは面接をする側にとっても同じで、これまでとは異なる判断軸が必要となるのでしょうか。適切に評価ができているか自信がない状態では、会社としてはより信用に値する情報に基づいて採用するかもしれません。それによって、採用ラインを押し上げてしまっているかもしれません。コロナ禍での採用の変化といった研究などがやられているので、その知見を待つことにしましょう。
 

大学とは何か?

先ほどとは全く異なるトピックス。大学とは何だろうか?という話題。
高校までは何を与えられるかが比較的大事、すなわち「コトが大事」であったとしても、大学以降の人生では、与えられたものや状況をどう解釈していくか、すなわち生きていくのに「解釈する」という自発性が問われるものであろうと。

ではその考えを踏まえて、大学をどう解釈するか?ということになります。
「大学とは○○○である」とついつい一般論のように言ってしまいますが、それぞれの人によって、○○○の部分に入る内容が異なります。それは、経験・置かれた場所・状況によってそれぞれの人どうしで解釈に幅があるからでしょうか。そしてそれはそれぞれの経験に基づいた判断であり、各人にとっては正しいと感じることができるものでしょう。実は各人で解釈が異なるという場所というのが、大学そのものなのかもしれないですね。

社会人になるとなかなか学生時代の時のような人間関係を作ることができない。どうしても利害関係や仕事をベースとした関わりだけになってしまう。そんなわけで、人間とか悩みとか葛藤とかぶつけ合える関係を試行錯誤しながら作れる場所が大学なのだろうという方もいらっしゃいます。

一方で、専門的な知識をつけたり、興味があることを学んでいくというのが大学という場所である。という方もいらっしゃいます。

僕自身は、大学はやるべきことを最低限やることで時間を捻出し、それによって得られた自由時間を使いこなす練習をする場所ではないかと考えています。

これはどっちが正しいというわけではなく、大学にはどちらの側面もあるということでしょう。では少し一般化してみましょう。前者では人間関係を構築すること、後者では興味があることを学んでいくこと、僕の考えでは自由時間を使いこなす練習となる場所。つまり、これらは共通して、自分がやりたくてやることをどれだけできるか、につながるのではないかと思うのです。つまり、(これらの意見を元に考えると)「大学とは自分が主体的にあれる時間を与える場所」と捉えることができるでしょうか。

大学の先生の授業は何故つまらないか?

大学の先生方の授業がつまらないのは、システムの問題としてとらえると分かりやすいかもしれない。授業を行うことはカリキュラム上必要なことだから、学校側からDutyとして与えられているものである。本来大学の先生は研究者であり、自分の研究だけやっていたい人が多い。実際に研究で業績を積み重ねた結果、大学の先生となる人がほとんどである。一応大学教員は、教育者ということではあるが、先生方にその自覚はない。ゆえに、Dutyとして与えられたものは極力やりたくないのではないだろうか。Mustであるので、授業はするけど。

そう考えると、その先生そのものが面白いかどうかは授業とは切り離して考えなければならない。「授業が下手な先生にこそ質問してみるとよい」とは、仕事で多くの大学の先生と関わってきた方からのアドバイス。つまり、上記のシステムを元に考えることで、先生方に専門分野の内容を教えてもらいに行くことで、その先生の面白さを見出すことができるのではないか。つまり、授業が下手な先生を訪ねて、その先生の専門について教えてもらうことこそ、面白い先生と出会ういいチャンスかもしれない。

オンライン化にまつわるエトセトラ

・オンライン講義・実習への対応について
大学の授業として本来与えられるべきものが与えられていない、という感覚を抱いてしまう。先生によっては、レジュメオンリーだったりするわけで、それはさすがに勘弁してほしい。というのが大学生としては比較的リアルな問題だったりする。

一方で、本来とは違ってそれが得られない状況、やってほしいというクレームばかり出すのではなく、どうその状況を選んでいくかということも重要である。という考えもありました。
 
これは、大学生側が主体的に働きかけるチャンスでもあると感じます。つまり、大学の対応に不満があれば、有志で署名して、文書による抗議をすることもできます。結果的に大学が動かない残念な結果になることはあるかもしれませんが、大学を動かすことそのものを目的とするのではなく、敢えて、抗議することそのものを目的とするということです。つまり、抗議を大学側に学生が出すために行う準備、話し合い、どう説得力を持たせてそれを訴えていくか、何を言うと説得力を損ねるのか、だれ宛にその文書を提出するか、などなど。それらすべてを学生さんたちが考えて練り上げていくことは、それこそ大きな主体的学びになると思うのです。メタ認知ができる学生さんであれば、例えば自分が大学の学長あるいは理事長だったとして、この問題にどのように対応するだろうか?という考えてみることもできると思います。それによって、やっぱり一方的には抗議ができないと気づくかもしれません。もしも自発的に動いて(一部でも)それを行うのであれば、その過程から学べることは非常に大きいのではないでしょうか。
 
・ちょっとしたやり取りの煩雑さ
一般的な面接授業であれば、分からないところを、授業後に学生間で共有しながら、解決の糸口を探すということがやりやすいんです。しかしながら、オンラインの授業の場合、先生の講義で分からないところがあっても、それは友達に聞きづらいんです。なぜかというと、自分自身が課題に追われている身なので、相手も同様に課題に追われているんだろうと考えてしまうからなんです。つまり、質問が煩わしいと思われるかもしれないから、迷惑をかけてはいけないと考えて、友達に気軽に質問ができないわけです。その結果、全部自分で解決しないといけないから、いつもよりも大変なんです。
 
面白いことに、同様のことを新人の社会人の方もおっしゃっていました。曰く、「上司への質問がとてもしにくいんです。上司へ質問をするにしても、まずメールやチャットでやり取りする必要があります。それによって時間を指定し、その時間になったら上司に質問することがやっとできるんです。質問することのハードルがこれだけ高くなると、多くの人は自分で何とかしようとするんじゃないでしょうか。特に上司が相手だと。だから、僕は逆にどううまく質問ができるかを考えるようにして、質問するようにしています。それをやることそのものが自分にとって大きなスキルとなると考えて、やっています」とのこと。先ほどの学生さんと共通で、やっぱり質問しにくい、というのがあるようです。しかしながら、その状況をどう利用しているか、という点で学ぶことがあります。

もしも自分が総理大臣だったら今の状況どうする?

多種多様な意見が出ました。最適解はなくて、ただただ自分の意見を言い、他者の意見を聞き、その間にある空間に思いを馳せる時間となりました。
 
・リスクを見て平均的に考えて、リスクを最小限にするような施策を行うと思う。そのリスクとは、国民が損をすること。国民が損をしないようにするため、理想論に近いところへ施策を落とし込むのだが、実は蓋を開けると一番現実的なところに落ち込むのではないかと。
  
・経済を回す。トランプやジョンソン、ナショナリズムを大事にしている。経済を止めることによって生きられないという人が多くいる。ウイルスのリスクはありつつも。しかしながら、これをすることで経営者と非経営者の間で対立が起こる可能性がある。
 
・コロナウイルスの感染が広がらないように気をつけなければならないけども、みんなが怖がっているのは、コロナウイルスそのものじゃなくて、人間なんじゃないだろうか。いわゆる風評被害。なぜこんなことになってしまっているのか。日本は大丈夫か…
 
・理想と現実の折り合いをつけて身動きを取れなくなってしまいそうはあるが、人命第一として考えてしまうと思う。→ 経済を回すためにストレスがかかりすぎて生じる自殺、ウイルス感染による死亡、経済が止まってしまうことによる死亡、人との関わりが減ってのうつ状態による死亡。どの局面でも死亡原因となる事象は起こり得る。死に光を当てると、必ず余計に死ぬ人が出てきてしまう。

おわりに

今回は学生さんに対して社会人の割合が少し多かったように思います。社会人の方が話してくださる内容は、大学の中でも起こり得るような問題と似ています。視座が少し異なることから、それを捉える視点を傍から見ていて、大変勉強になります。立場関係なく、お互いそれぞれの場所で抱える問題をどう捉えるか、ちょっと人の考え方を借りる、ちょっと違う視点から見てみようとする、それによって世界は大きく違ってくるのかもしれません。次回は8/8に開催予定です。


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