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見過ごされるなにかへのアプローチ

FOOD ART STATION のテーマである「Passing Trains 日々の落とし物」を見過ごされるなにか。と翻訳し、そのアプローチを作品として提出した。

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0,FOOD ART STATION(以下FAS)

【高架下マルシェ】
高架下を舞台としたマルシェ。今回のマルシェは、「Passing Trains 日々の落とし物」をテーマとし、食べるという行為の中で、”普段見落としてしまっている豊かさとは何だろう?”という問いから企画を行いました。

1,メタファーをつかって表現(カタチに)すること

プロジェクトのタイトルは「11月の年賀状」。この手紙は、宛先を”来年の他人”から”のこりの今年の自分”に変更し、”のこりの今年”を過ごす自分に向けて、「今年もよろしく」という言葉を投げかける郵便型の作品である。

年賀状のモチーフに1枚の写真を2000回コピーする作品 A=AA≠A *を選択する。繰り返しのコピーによるイメージが変容するプロセスは、始点と終点しか止まらない特急列車が通過する各駅である”見過ごされるなにかのメタファー”である。

見過ごされるなにか

2,A=AA≠Aにおけるプロセスの表現

アートで焦点があたるのは、いつも完成した作品であって、プロセスは焦点があたることはほとんどない(課題提起)。
東地雄一郎は、プロセスこそ作品の本質では?という仮説のもと、”見過ごされる本質” に焦点をあわせて、黄金町AIRのスタジオで制作している。
A=AA≠A(2018~)シリーズでは、だれでもしっているあの山の写真から2000回のコピーがつくるイメージの変容そのものを作品としている。

3,見過ごされるなにか。

与えられたテーマ”日々の落とし物”から連想したのは、”落とし物を拾うこと” で次に、落とし物=拾ったもの のことを想像した。この想像することが、制作の中では当たり前でも、社会に入ると”見過ごされがちなことではないか?”と仮説をした。

提案の方針:見過ごされるなにかに気づいてもらうこと
・通過するプロセスをみえるようにすること
・視覚化されたプロセスを体験にすること

落とし物→見過ごさているへの気づき→拾ったもへの想像 の翻訳だが、
落とし物を拾うのに必要な気づきと、拾ったものへの想像は直接的には接続できない。気づきと想像をつなげるための装置が必要で、その装置の要件は、通過されているものの顕在化 もしくは いっしょに想像することができることと考えてた。

4,気づくためのツールとしての手紙

手紙はコミュニケーションの最小単位で、発信と応答の繰り返しである。発信と応答の時間がSNSと比較して極端に異なっており、この異なる部分=長さ がつくる印象は、プロセス=見過ごされたなにか を見つけるのに最適である。ゆえに、手紙が鑑賞者とプロセスを共有しやすい装置である理由である。また、手紙がつくる想像が、作者が鑑賞者に対するの祈り あるのと、鑑賞者はその応答として自身に対する祈りをつくりだす 未来をいっしょに”そうぞう”できる機会であると期待する。

のこり今年

(メモからの抜粋その1) 
未来のだれかに手紙をかくこと
=不確かなものと約束をすること
=期待値は想像すること
(メモからの抜粋その2)
時間をあけること(忘れる?祈り?)からこそ、実行することができる。 
前提条件: 1週間後の自分を別人として設定する。
1週間後の自分のケアをすることを大切にしたい。

5,提出された作品

作品であるハガキ(手紙)とそれを入れるためのケースを準備した。ハガキ(手紙)は1~2000番の番号をふり、始点と終点を外したプロセスを構造として提出した。ケース自体もハガキ(手紙)なしにはフタが固定できないような構造にして、プロセスなしには結果がみえないような仕掛けも施した。ケースはクリアにして、見過ごされるなにか=ハガキ(手紙) が透けてみえるように提示している。

見過ごされるなにか2

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鑑賞者はケースに入ったハガキ(によって可視化されたプロセス)から、任意に1枚選択し、ハガキに書かれた指示にしたがってメッセージを書くようにしている。

“のこり の 今年 ”を生きる自分 宛 て にメッセージを か いてください。
ルール:最後に 今年もよろしくでしめくくること。

6,見過ごされるなにか が 見過ごされたなにか に変わるとき

作家の東地雄一郎は、2021年に入ってから事前的な解釈と事後的な解釈の2面性について取り組みをしてきた。先日開催された黄金町バザール2021には、”よりよきものエヴィデンス”として作品を提出した。

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エヴィデンスとは事後的な解釈でのプロセスをさしており、鑑賞者が完成した作品から想像する作品の成り立ちを示す証拠である。それに対して、作者は完成以前から作品をみており、プロセス=計画・手続き の側面があることを知っている。このプロセスの2重性を見過ごされるなにかへのアプローチとして、コンセプトに織り込んだ。

ここでいう事前事後の境目は、FASのイベントであり、当日は100名以上の方に手紙を出して頂いた。結果的に2000枚の手紙うち約100枚が選択され、のこりの(結果的に)1900枚の、選ばれなかった手紙=見過ごされたなにか がカタチとして目の前に現れる。FASの終了をもって、”見過ごさているなにか”(事前解釈)は、見過ごさされたなにか(事後解釈) に意味が変容する。

7,鑑賞者としての翻訳

事後的解釈によると、鑑賞者が”見過ごさされたなにか”の制作に関与したかもしれない。というのは、見過ごさたなにかをカタチにすることの共犯者とし参加し、手紙を選んだ(他の手紙を選ばなかったという選択)と解釈できるからである。このとき鑑賞者の体験としては、気づかないうちに共犯者に仕立てられた状態であり、あるサインを見過ごした結果として解釈してもいいかもしれない。

さらにポジティブな解釈として、見過ごさているもの(プロセスの)中から1つだけ選ぶ権利が与えられる=(見過ごしたことを)やり直す 権利が与えられるプロジェクトで、それを行使したと言えばいいかもしれない。

8,1週間後の1週間前の自分と祈り

手紙がつくる長さは、鑑賞者作者に関係なく体験としてプロセスを顕在化していくれる。そして、見過ごしてはならないなにかに気づかせてくれる。
もし、気づかなったとしてもそうであってほしいという願いが手紙には宿っているとおもう。アーティストがつくる作品も同じである。
事後的にわかる”願い”は、制作中における作者の”祈り”かもしれない。こうしてちょっとだけ想像をのばしてみるだけで見える世界が変えることができるのがARTのすばらしいこと(価値観)だと信じている。

9,見過ごされるなにかの記録


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