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自治体広報誌を見たことがありますか?

基礎自治体と広域自治体

改めて言うことでもないでしょうが、日本の地方制度は、二段階構造になっています。日本全国は、1,724の市町村、23特別区にくまなく分けられており、さらにすべての市町村、特別区は、47都道府県(1都、1道、2府、43県)のいずれか一つに包括されています。

市町村、特別区を基礎自治体(地方自治法2条3項では「基礎的な地方公共団体」)と呼び、都道府県を広域自治体(同条5項では「市町村を包括する広域の地方公共団体」)と呼びます。

広域自治体は、

「広域にわたる社会資本整備,危機管理や産業政策、環境対策など多くの役割を担うとともに,合併後の基礎自治体の体制整備の支援などを行う」

とされています。

これに対して基礎自治体は、地域の住民に身近な行政や住民生活に密接する社会資本整備など、域内における行政をできるだけ自己完結的に処理する役割を持っています。これを「市町村優先の原則」あるいは、「補完性の原理」と呼びます。補完性の原理とは、政策決定は、それにより影響を受ける市民により近いレベルで行われるべきだという考え方を指します。より簡単に言うと「問題はより身近なところで解決されなければならない」とする考え方という説明が分かりやすいと思います。

このように、広域自治体は、基礎自治体で担えない事務事業を担うとともに、国の地方支分部局等で行っている、地域における事務事業の多くを移管されています。ですので、地方で担うべきものについては、基礎自治体の役割ということになります。

戦後、新憲法のもとで、地方自治体の役割も大きく変わってきました。

戦前においては、市制町村制、府県制以来の地方制度は存在したが現代的な意味での地方自治のシステムとしては極めて不十分なものであった。それが、いわゆる戦後改革、日本国憲法の制定によって、大きく状況が変化した。日本国憲法には、地方自治の規程が置かれ、そこにおいて、地方自治の本旨にもとづくことがうたわれ、地方自治が憲法の理念のうちの1つとして掲げられたということができるだろう。

前述の市町村優先の原則などは、まさに地方自治の民主化の一つの表れであり、戦後社会においては、基礎自治体の果たしてきた役割は、昭和20年代の復興期から、決して小さなものではありません。

基礎自治体は、時代と地域の目撃者

行政機関の一つである基礎自治体は、その地域での様々な施策を行い、それを公文書として、記録して行きます。特に戦後の民主化政策の下では、政策の実施だけでなく、一般市民に対しての広報、広聴活動にも注力していくようになって行きました。テレビの登場以前の時代においては、紙媒体と映像媒体である映画が重要な広報手段でした。多くの基礎自治体では、紙媒体として、自治体広報誌が制作されて行き、さらに昭和27年の講和条約発効に合わせて、ニュース映画の制作にも乗り出す自治体も登場してきます。自治体の制作による広報機能を持ったニュース映画を、「政策ニュース映画」と総称します。それらの多くは、自治体の広報部門によって、広報誌と並行して制作されていったようです。

政策ニュース映画に関しては、テレビが一般化しニュース映画の役割が終わってからは、長く忘れ去られて来ており、現在では逸失したものやフィルム自体の劣化などの問題を抱えているものも多くあります。

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ここでは特に、基礎自治体による、もう一つの広報資料である、自治体広報誌について取り上げます。現在では、Webを中心としたデジタルによる手軽な広報手段の登場により、自治体の広報誌は、「自治体と住民を結びよりよい関係を築くためのツール」という認識が一般化してきており、重要な情報発信媒体として力を入れている自治体が増えてきました。

前述のように、自治体広報誌自体は、戦後の地方自治の民主化の下で、その地域の人々に極めて身近な政策や地域の課題などを定期的に記録して来た、非常に貴重な記録であることは言うまでもありません。大げさではなく、その地域の目撃者が、自治体の広報誌なのです。

しかし残念ながら、記録としての自治体広報誌の価値は、正当に認識されているとは言い難く、保存されているとしても、蔑ろにされているケースが多々あります。

筆者は、ちょっとした縁で、神奈川県ニュース映画協会が作成した、昭和20年代からの大量のニュース映画群の内、川崎市に関する分、全719本、計19時間分30分ほどを分析する機会を頂きました。神奈川県ニュース映画協会とは、広域自治体である神奈川県が設立した、ニュース映画の制作企業で、県内の様々なニュースを昭和20年代から平成19年まで記録してニュース映画化しています。同団体が解散する際に、各基礎自治体にニュース映画そのものを委譲しましたが、その中で川崎市の依頼分をまとめたものが、「川崎市政ニュース映画」として、川崎市民ミュージアムで、デジタル化され権利処理なども行われたものです。

川崎市は、戦前から多くの工場があったため、太平洋戦争中は、空襲の被害が大きく、戦後の地域の復興の記録として、この川崎市政ニュース映画は、大変貴重なものでした。それらを分析している中で、映像中にしばしば川崎市の広報誌「市政だより」が映ります。

川崎市には、「市政時報」という行政刊行物があり、昭和24 年 5 月 20 日に、川崎市名義で創刊されています。以降毎月20 日に発行され、現在も「かわさき市政だより」という名称で、毎月 2 回発行されています。
川崎の市政ニュース映画は、昭和27 年 から制作されていますが、同時期の川崎時報を見ると、ニュース映画と同様なテーマや、撮影時のアウトテイクらしい写真などが使われており、ニュース映画を撮影した神奈川ニュース映画協会が、編集、制作なども請け負ったようです。
昭和24 年の創刊以降、 26 年までの分は、川崎市文書館に保管されています。しかし、次の写真でわかるように、相当に劣化が酷く、複写に耐える状態ではありません。セロテープで留めたものがあったり、赤鉛筆の書き込みがあったり、文書館で保管するレベルではありませんが、行政刊行物は、ほぼこういう存在だったのでしょう。

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自治体による広報誌やニュース映画は、公文書ではなく行政刊行物の一種として扱われており、保存、管理に関する規定はありません。そのため散逸してしまったものや媒体の劣化などの問題を抱えているものなども多くあります。さらにそれらの刊行物は、大量に複製されて配布されたため、史料として比較的ぞんざいな扱いを受けているケースが多く見受けられます。結果として、こうした劣化したものしか残っていないということでしょう。

筆者らは、この政策ニュース映画の製作者に、実際の制作に纏わることを聞きたいと考えましたが、最後まで活動していた、神奈川ニュース映画協会も、平成19年に解散しており、関係者の所在も不明になっています。しかし、伝手をたどって、山形市に、山形市政ニュース映画を作成していた元市広報課職員の方がご健在だということを知り、2019年の夏にインタビューに伺いました。
以下の写真に写っている、水澤慶英(きょうえい)氏です。手に持っておられるのは、小型ビデオカメラのアイモで、太平洋戦争中からベトナム戦争に至るまで、報道カメラマンが用いたものだそうです。この写真は、ご本人から複写させていただいた、ニュース映画を撮影、編集している写真のうちの一つです。この写真を見せていただき、また公開することを快諾してくださっただけで、はるばる山形市まで行った甲斐はありました。

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水澤慶英氏は、昭和7年3月生まれで、山形市職員として長年勤務されました。入職当時は、山形市の広報誌「山形市報」を担当したそうです。月3回、タブロイドサイズで全戸配布で制作しており、後に、水澤氏が紙面の改革を行い、A4サイズ、写真中心に変えたそうです。発行を月2回に変えて、取材、制作に15日を掛けるようになったのが大きな転換点で、ちょうど山形市の大合併により、町づくりが大きな地域課題になったため、PRが大きなテーマとなってきたそうです。広報誌だけでは、住民への訴求が弱かったため、ニュース映画を制作をするようになったとのことでした。第7回国体の際に、毎日ニュース映画の記者が取材していたのが切っ掛けで、映像に興味を持ち始めたとのことで、広報山形と連動して、映像と写真で報道していくというスタイルになったそうです。

なるほど、媒体が違うだけで、政策に纏わる諸々を市民に広報するという意味では、広報誌と政策ニュース映画は、同じ役割であり、同時並行で製作されていったということがはっきりわかりました。まさに、どちらも当時の市民や社会の様子を間近な場所から記録していった、時代の目撃記録と言えるわけです。


新しい時代の自治体広報誌について

前述のように、自治体の広報誌は、昨今ではその存在意義が見直されて来ており、WebやSNSの活用などと合わせて、各自治体でも積極的に情報発信をしてきています。また自治体広報誌のコンクールなどもあり、入賞している広報誌は、商業誌と区別がつかないようなハイクオリティのものも目に付きます。

しかし、殆どの自治体で公開しているのは、ここ5,6年程の広報誌が殆どで、本当の意味で、地方自治が始まった昭和2,30年代の頃の広報誌も、政策ニュース映画同様に、余り顧みられているとは言い難い状況です。

その中では、広報誌自体をアーカイブスして公開している例として、鹿児島市のものを紹介します。「鹿児島市広報デジタルアーカイブ」という表題で、固有のオウンドメディアWebがあります。そこでは、昭和24年8月25日発行創刊6号から保存されています。欠番も多くあるようですが、その点が行政刊行物の特徴でしょう。

公開されているのは、広報誌本体のPDF版と、各号の特徴的な見出し項目が付随しています。

例えば昭和24年6号は

・昭和24年7月議会追加補正予算・市住民税条例改正…1面
・鹿児島市上水道の歴史…2面
・市交通事業公聴会…3面~5面
・日本とアメリカにおける婦人会の差異…6面

となっています。これだけでも大変な労力でしょうし、以降昭和時代、平成、令和まで、PDF化され、10年ごとに整理して公開されています。アーカイブズとしては、ほぼこれで十分でしょう。実際にじっくり目を通してみると、いろいろと時代性が見えますので、それなりに興味深いものではあります。しかし、結局はそこにデータがあるだけで、これがどういう意義や役割を持っているのかまでは見えません。
おそらくどの地方も、広報誌の内容などは、ほぼ同じようなものでしょう。地元の人でなければわからない内容も多くあり、さらに所詮は行政資料ですので、決して「面白い」ものではないと思います。

茨城県利根町広報誌「広報とね」

さて、筆者の手元に、茨城県利根町の広報誌である「広報とね」を、昭和40年から17年分、スキャンしたデータがあります。先般利根町で、筆者の研究室で利根町をリサーチした結果の報告会を兼ねた住民イベントを行いましたが、その折にスキャンさせていただいたものです。
保存状態は比較的良好ですが、特に初期のものは、やはり欠番が多くあります。

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ざっと見た所、川崎時報とは全く内容が違っています。利根町は、今もそうですが、元々利根川の水利を生かして栄えた町で、稲作を中心とした農業が固有の産業ですが、昭和40年代後半からニュータウン開発なども進んできており、ベッドタウンという側面もあります。
おそらく戦争の被害などは余りなかったのではないでしょう。ですので、広報誌にも、復興に纏わることや、都市型の課題なども取り上げられていません。川崎の広報誌は、昭和20年代から始まるせいもありますが、ヒロポンや野犬など、いかにもな話題が多くありましたが、広報とねには、そういった話題はありません。本当に、淡々とした近郊農村の日々を推察させるような記事が並びます。さらに「広報とね」は、昭和40年の創刊ですので、オリンピックの翌年、復興は既に終わり、高度成長期に弾みがかかろうという時期と言えるでしょう。そのため、他の自治体の広報に比べて「歴史のある」という言い方もまずできないでしょう。

しかし、このまま利根町の図書館の書庫で眠らせていくのは、もったいないような貴重な時代の史料であることは間違いありません。
地域の歴史と言えば、殆どの基礎自治体には、町誌があります。利根町の場合も、「利根町史」と題された、大部の文献があります。
聞くところによると、2020年初頭からの自粛生活で、各地で町誌が売れているそうです。四六時中、地元にいるわけですから、確かに買う人の気持ちもわかります。

利根町史は、古代・中世編、近世編、近・現代編の編年編集の他、民俗編、寺社編、さらに史料集、目で見る町の歴史といった構成は、非常に分かりやすく、町の貴重な史料であることは間違いないでしょう。
実際に筆者も第1巻、目で見る町の歴史編を購入しました。図のように、旧地名(小字)地図が付録になっており、「目で見る」というタイトル通り、写真もふんだんに掲載されており、かなり読みごたえがあります。

しかし、発行は昭和54(1979)年3月です。そのためか、あたかも高校の日本史の教科書のように、現代の部分、特に戦後のことに関しては、殆ど記述がありません。言うまでもなく、昭和から平成、そして21世紀に至るまで、多くの社会変化があり、それによって地方都市も、少なからず変わってきているはずです。例えば当時は、これほど少子化、高齢化に着目はしていませんでした。

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既に40年程前の史料ですが、利根町史が編まれた10年ほど後、昭和43(1988)年に、当時の竹下内閣の政策として「ふるさと創生事業」が行われます。地域振興を目的に全国3000超の市町村に一律1億円が交付されたのを記憶している方もいると思います。使途は自治体の自由だったので、様々な珍政策がありましたが、いくつかの自治体では、町誌の制作や改訂などを行っています。

利根町の場合は、町誌制作から10年足らずということで、改訂などは行われていません。この「ふるさと創生」は、第二次安倍内閣による「地方創生」がこれほど注目されているにもかかわらず、殆ど話題にもなりません。時代が丁度バブルの前期だったせいもあり、前述のように、使途が自由な1億円が配布されたため、博物館やホールなどの箱物や、モニュメント、さらには金塊、あげくのはては村営キャバレーの経営など、地方自治政策における黒歴史扱いをされています。
その中で、利根町は1億円を原資に、「柳田国男記念公苑」の整備をしています。

つまり利根町では、形式上、40年以上町史は作られていないわけですが、その間、ずっと町を記録してきた史料があります。それが、この広報誌「広報とね」に他なりません。

戦後社会の主役は、言うまでもなく、一般市民です。経済面では、自由意志によって購買や生産などの経済活動を行い、政治面では、主権を持って民主主義社会を支える、市井の人々、社会を動かしていったのは、独裁者でも皇帝でもなく、こうした人々だったのが、戦後社会の最大の特徴です。消費者、生活者、市民、大衆、庶民等々、文脈により様々な呼ばれ方をされますが、こうした市井の人々の記録こそが、戦後の町史になるはずです。

自治体の広報誌は、自治体により作成されるものですが、行政関連資料であり公文書ではありません。そして市民への広報という性格上、市井の人々に関わるような政策、出来事などが、淡々と記録されて行きます。
これほど価値のある、地域の記録はありません。少なくとも、戦後の地域のアーカイブズを構築するにおいて、柱となるタイムラインになると考えています。

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この後、広報誌「広報とね」について、ゆっくり分析していきたいと考えています。



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