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昭和40年の利根町(「広報とね」ダイジェスト)

広報誌は地域の目撃者

 茨城県の南側に位置する利根町は、その名前の通り、利根川沿いの静かな町です。利根川の恵みを利用した水田が広がる農村地帯で、神社と農事に纏わる祭事など、昔ながらの日本の地方の風情があります。しかし東京から40キロ程度、公共交通機関で1時間程度の距離にあり、十分通勤も出来る場所でもあり、ニュータウン開発なども行われ、都市のベッドタウンという側面もあります。

 高度成長期の半ば過ぎ、昭和39(1964)年、東京オリンピックが開催された年ですが、その年から、利根町では広報誌「広報とね」を制作し始めました。
自治体の広報誌は、現在では住民との重要なコミュニケーションチャネルだとの認識が広まって来ています。

自治体の広報誌は自治体と住民を結びよりよい関係を築くためのツールです。 広報誌は自治体の方針やビジョンを浸透させるだけでなく、実際に住民にアクションを起こしてもらえるきっかけ作りや対外へのアピールに活用できるため、重要な情報発信ツールとして力を入れている自治体が増えてきました。

 多くの自治体では、対日講和条約(サンフランシスコ条約)の発効(昭和27年)前後から、復興の記録を残すことを目的に、自治体の広報、広聴部門によって、ニュース映画や広報誌などが制作され始めました。高度成長期に入る昭和30年代には、地方自治体の行政課題も増え、住民側への広い伝達などが必要とされ、現在よりもメディア自体が限られていたところから、広報誌は盛んに作られたようです。

 大学の演習科目で利根町とご縁を頂き、利根町を理解するために「広報とね」をスキャンさせていただきました。これからその広報誌「広報とね」を分析して行きますが、その最大の目的は、利根町の住民アーカイブズ「利根町・思い出ライブラリ」を作っていく上での、基本的なタイムラインにするためです。尚、広報誌は行政刊行物であり、基本的な著作権は利根町にあります。

利根町の町史は、例えばWikipedeliaでは、以下の2行で示されています。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、北相馬郡布川町、文村、文間村、東文間村が発足。
1955年(昭和30年)1月1日 - 布川町、文村、文間村、東文間村が合併し、利根町が発足。

 行政区で言えば、確かにそうなんでしょうが、その間にこの町でどんなことが起こり、住民の方々がどう暮らしてきたのか、それを纏めていくためには、もう少しきめ細かいタイムラインが必要でしょう。高々2行で終わるような町ではないので、広報誌を、町のタイムラインとして使いたいと考えています。

 利根町の広報誌「広報とね」ですが、創刊の年である昭和39年度分は、利根町図書館には保存されていません。昭和39年5月創刊号から、10号分、昭和40年2月号まで、欠番になっています。広報誌は、法律上は公文書ではありません。いわゆる行政関連資料という扱いで、公文書とは異なり保存に関する規定はありません。
 多くが、大量に印刷されたため、余り保存するということを意識してこなかったものと思われます。他の地域でも、こうした広報誌の保存に関しては問題が多く、我々がリサーチした例で言えば、川崎市の広報誌「川崎市報」は、昭和20年代分は文書館で管理はされていますが、複写することができないほど劣化しており、また書き込みやセロハンテープなどで修復したものなども含まれていました。

 「広報とね」の創刊から10号分は、散逸してしまったものと思われます。もしかすると、住民が保存しているかもしれません。以下、「広報とね」を年次ごとにダイジェストをしながら、特定のテーマに関しても掘り下げて整理してみます。
 広報誌をネットで公開する自治体は、最近増えてきました。それに合わせて、過去の広報誌も公開され始めています。筆者が見るところ、広報誌を丁寧にデジタル化して公開している例に、鹿児島市があります。

 広報誌はあくまで行政資料ですので、読んでいて決して面白いものではありません。その時点でのその町の課題や政策などが、淡々と記述されています。しかしであるがゆえに、その町の住民の姿が、これを通して見ていくことで明らかになっていくものと思っています。

 広報誌は、基本的には行政を実施する上での住民への伝達、通達事項から構成されています。項目としては、明確に区別されるものではないでしょうが、おおよそ、①行政関係(議会や選挙など)、②出来事、③産業、④設備、施設、⑤生活、⑥習俗、祭祀、⑦イベント、そしてそのどれにも当てはまらない、⑧その他、といったところでしょうか。これらの様々な内容を通して、時間の流れに従って、その町を見ていくことができるのが、広報誌のアーカイブズの機能だと思っています。
 では、現存する「広報とね」から、どこまで利根町のことがわかるのか、見て行きましょう。

昭和40年の出来事

 「広報とね」は、昭和40年3月発行の第10号から現存しています。昭和40(1965)年、オリンピックの翌年で、「いざなぎ景気」と呼ばれる高度成長期の中での好景気が開始します。ここから本当に日本が豊かになって行くプロセスが開始したと言っていいでしょう。戦後の三種の神器と呼ばれる、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の家電3品目が一通り行き渡り、時代は既に自動車、カラーテレビ、クーラーという、新たな耐久消費財である、3C時代が始まっています。個人的には、昭和39年の東京オリンピックとビートルズ来日のニュースは、カラーテレビで見た記憶があります。昭和34年の皇太子ご成婚を機にテレビ(白黒)を購入する家庭が多かったという記述をしばしば見ますが、その時点ではまだまだ豊かではない家庭が多かったはずで、筆者の家庭でも主にラジオを聞いていました。それから5年が経ち、カラーテレビが買えるくらいには豊かになったということでしょう。

 昭和40年の「広報とね」は、1,2,4,5,6,7,9,12月号が欠けており、昭和40年3月、8月、10月、11月号しか残っていません。各号の見出しで目に付くものとしては、以下のようなものがあります。

No.11 昭和40年3月5日 
 議会だより(補正予算案など可決)
 確定申告、納税相談
 米の収入くらいは野菜でとろう
 成人病
No.16 昭和40年8月10日
 旧地主必読・旧地主に対する農地報奨について
 量水制による水道現況について
 交通事故と損害賠償について
 給食室
 明るく正しい選挙
 日本脳炎を防ごう
 米価要求大会
 米の改善運動
No.18 昭和40年10月10日 
 コンバイン見学記・今後の農業は機械化で省力
 優良納税貯蓄組合
 結婚相談室開設
No.19 昭和40年11月10日
 給食のこと・みんなでつくったさくぶん
 文間小学校に築山完成
 合併10周年記念式典中止
 栄橋竣工35周年
 移動図書館
 運動会

 他にも投稿や料理の献立などのコラムなどもありますが、行政側からの住民への広報としては、こういったところでしょう。この中で目立つのは、農業、米関係に関する記事が毎号上がっている点です。改めて、利根町は、農業の町だったということがわかりますが、それらを見ていくと、昭和40年当時の、農業、農家の状況がわかります。

昭和40年の利根町の農業

改めて、農業関係の記事としては、以下のようなものがあります。ほぼ、毎号農業関係の記事が出ていますが、今となってはかなり分かり難いものがあります。

昭和40年3月号(No.11):
 米の収入くらいは野菜でとろう
昭和40年8月:
 旧地主必読・旧地主に対する農地報奨について
 米価要求大会、米の改善運動
昭和40年10月:
 コンバイン見学記・今後の農業は機械化で省力

例えば、8月号の「旧地主必読・旧地主に対する農地報奨について」は、今となっては相当難解な内容だと思われます。

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戦後の農地改革で、旧地主は土地を失うことになりました。その頃の詳しい事情は、今となっては分かり難いものがありますが、その辺りは、以下の記事「地主補償問題」に触れられています。

GHQによる占領終了後の1953年12月23日に出された最高裁判所の判決で農地改革が合憲であるとの判断が出されたことから、日本政府並びに農林省に対して補償を求める動きが旧地主らの間で高まった。

こうした背景の中で、昭和40年に「農地被買収者に対する給付金の交付に関する法律」が制定され、その結果として、旧地主に対して10年償還の無利子国債によって追加補償がされることになった、とされています。まさにその時の記事がこれです。記事では、

十数年来の旧地主の要望である「農地報償法案」が…、可決成立し、いよいよ農地被買収者に対する給付金の交付が開始されることになりました。

とあります。旧地主たちがどうしていたのかなどは、公的資料などでは殆どわかりませんので、貴重な記述であることは間違いありません。Wikipediaでは、

水田10アールあたりを2万円を最高として買収面積に応じて漸減する計算式で算定された補償額(最高100万円まで)を国債の形で給付されることになった。

とありますが、記事では「一畝以上一反未満までは1万円…」となっていて、まだ尺貫法が一般的であり、不動産で使われる、坪よりも農業では、畝、反などのほうが多用されていたことがわかります。ちなみに、以下の関係があります。

一歩(いちぶ)< 一畝(いっせ)< 一反(いったん)< 一町(いっちょう)

 この年には、農業行政そのものに纏わる大きな政策決定がなされてましたが、その他にも農業の変化が伺える記事がいくつかあります。

まず、昭和40年3月号「米の収入くらいは野菜でとろう」です。

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前述のように、都市部の住民を中心に高度成長期に弾みが掛かる頃であり、食生活も大きく変化してきたようです。ここでは「近郊地帯の農業は、高度なそ菜園芸の振興が必要です」とあります。
以下に、興味深い記事があります。

戦前から、野菜の栽培には下肥が使われていたため、日本には野菜を生食する食文化は存在しなかったようです。実際、明治の一桁生まれの医師だった祖父は、一切生食をせず、豆腐でも必ず熱を通して食べていました。
戦後、食料事情が悪化する中で、進駐軍から食生活の改善の要望があり、こうした方向での政策が進んで行ったようです。

「清浄野菜」とは、下肥は使わず化学肥料と、油粕や豆粕などの粕類、それに堆肥で栽培した、虫卵や有毒物のない野菜のこと。厚生省と農林省(現・農林水産省)が協力して清浄野菜の普及計画を立て、1955(昭和30)年に各都道府県知事あてに「清浄野菜普及要綱」を通知した。

さらに、「料理が簡単な野菜」、「見た目がきれいでうまさを感じさせる野菜」といった条件が挙げられており、今後の農業活動として、①大量の継続出荷、②品質の統一、さらに⑤強力な宣伝、などが挙げられており、明らかに農業の近代化、生産性の向上という課題が出てきていることが伺えます。

こうした農業の変化に関するものとしては、昭和40年10月号での「コンバイン見学記・今後の農業は機械化で省力」があります。内容的には目新しいものではありませんが、時代の転換点を感じさせます。

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もう一点、農業にも関わる事項として、昭和40年11月号の「給食のこと・みんなでつくったさくぶん」という、ちょっと変わった記事があります。同年の10月13日から、利根町では学校給食が開始したようで、東文間小学校の生徒たちが給食の感想を述べたものです。献立などを見ると、やはりパン食で、都市部で給食を食べた経験のある立場からは、若干以外です。米の町でも、パン食だったのですね。

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給食が、パン食から始まった事情などは以下にまとまっています。

米がそもそもパンに比べて価格が高い、炊飯に手間がかかる、運搬と保存、配膳、食器洗いと後処理に手間がかかる等の理由から、ご飯が給食に出されることはなかった。学校給食の主食は、当初はパンだけであったが、社会的に豊かになり、食糧も潤沢になり、食生活の西欧化から、米余りの問題が指摘されはじめ、その結果、消費促進も狙って、1976年(昭和51年)に『文部省令第5号学校給食法施行規則等の一部を改正する省令』で、米飯給食が制度上位置づけられた。

 昭和40年8月号には、完全給食を目指して建設中の給食室の様子を写した写真があります。

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 これら一連の記事を読んでみると、この年は、農業そのものが、法制的な側面を含めて、大きく変化しつつあったことが分かります。そこで見えてきた、都市部の消費者と食生活の変化に合わせた、農業、一次産業の生産性の課題は、はっきりとした決め手や方向性が見えないまま、その後日本の戦後社会において、ボディブローのように影響を与えながら残り続けて行きます。

 それでも昭和40年3月号「米の収入くらいは野菜でとろう」にあった、キャベツの出荷風景の写真は、写っている女性の笑顔と、そばにいる犬の様子が何とも微笑ましい、いい写真です。この時代は、まだまだ農業が元気だった様子が分かりますし、何より人々が若かったということでしょう。広報誌には、こうした市民の姿を直接記録した貴重な写真もたくさん含まれています。

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 広報誌を注意深く読んでいくと、その時の時代性を感じさせるちょっとした情報にも気づきます。利根町のタイムラインのために、いくつか書き起こしておきます。

昭和40年8月号:
利根町の簡易水道は、文間、東文間地区が昭和33年4月から、文、布川地区が昭和34年から給水を開始し、既に7年余を経ております。その間、放任性給水を実施して来ましたが…本年1月から正常な給水を行うために、量水制給水に切り替え…
昭和40年11月号:
給食費は月額600円
文間小学校の校庭に、このほど県下でも珍しいといわれる築山が完成し、230名の自動や父兄の皆さんに喜ばれております。
合併10周年記念式典取りやめ
 三小学校の給食室の建築事業及び消防自動車ポンプの購入等で出費が多く…
栄橋架け替え問題を促進
 昭和4年、布川、布佐の組合によって架せられた栄橋も竣工後35年を経て老朽化し、年々荷重が大きい車両の交通量が増大して数年前から損傷が大きくなって来ています。

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尚、「広報とね」の原データは、利根町と相談しながら、なんらかの形で公開して行く予定です。またそれらのダイジェストや解説を、しばらくこのマガジンで継続して行く予定です。お付き合いください。

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