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昭和41年上半期の利根町(「広報とね」ダイジェスト)

茨城県利根町の広報誌「広報とね」を分析しています。昭和41年度分は、2,4,7,12月号が欠番です。

昭和41年のできごと

昭和41年、1966年は、高度成長期の始まりから10年ほどが経過して、ますます経済成長に弾みが掛かり始めた年です。昭和39年のオリンピックが終わり、社会は若干の落ち着きを取り戻した頃ですが、既に昭和2,30年代に存在していた旧態依然とした社会の姿は、大きく変貌を遂げつつある時期でもあるわけです。

 以下に、各年度の出来事がまとまっています。これによると、昭和41年は以下のような出来事があった年とされていますが、やはり日本の総人口が1億人を超えたことが最も大きな出来事でしょうか。
 人口統計などによれば、昭和20(1945)年の終戦時には、71,998,104人で、前年比で−1.5%になっています。ただこの前までの数年は、出生数のデータをみればわかりますが、何人生まれたのかが統計としては定かではないので、厳密な数ではないでしょう。以降、平成27(2015)年に初めて人口の前年比が−0.8%になるまで、増加を続けて行ったわけです。
 しばしば国民やこの国を指すときに使われる「1億」という表現は、ここが起点です。その意味で、現代社会の起点ともいえるかもしれません。
またビートルズの来日をはじめとして、娯楽、文化関係の出来事も増えてきています。

■敬老の日・体育の日制定
■ビートルズ来日
■日本の総人口が1億突破
■クイズブーム本格化
■日本でメートル法完全施行
■日本で戦後最大の公共交通機関ストライキ
■日本テレビ系の演芸番組『笑点』放送開始
■国立劇場開場
■台風が各地に暴威
■全日空ボーイング727型機が東京湾に墜落し133人全員死亡
■NHK朝の連続ドラマ「おはなはん」が茶の間を独占

利根町の昭和41年上半期

まず昭和41年上半期の「広報とね」の主要な見出しです。

No.20 昭和41年1月15日
 新年を迎えて
 小貝川の水
 知っておきたい水道給水のこと
 水道の事故防止に付いてお願い
No.23 昭和41年3月10日
 住民登録諸届一覧
 第9回読売科学賞地区優秀賞
 全国郷土地理研究会章受賞
 NHK学園高校入学願書受付中
 小貝川の水
 人のうわさで知る前に、直接聞こう町のこと
 しめやかに鶴供養
No.25 昭和41年5月10日
 議会だより
 花を育てて清潔な暮らし(花とほうきの運動)
 町税改正について
 密造酒はやめましょう
 結核患者の推移
No.26 昭和41年6月10日
 ぼくらは土の子だ
 第十回国勢調査調査結果
 アメリカシロヒトリを駆除しましょう
 農夫症とその予防

 年間を通してまず気づくのは、昭和40年にあれだけ記事の大勢を占めていた、農業、米関係の記事が殆ど無いということと、やはり社会の流れを反映してか、教育、文化関係の記事が目に付きます。総じて、大きな出来事もなく平穏な時期だったようです。

 ここでは、2つの記事を取り上げます。まず小さな記事ですが、昭和41年3月10日発行の第23号に取り上げられている「鶴供養」です。

 場所は利根町内の大字「押付新田」で、徳川時代にあったある悲劇に根差した、土着の供養祭のようです。「鶴供養」という祭事自体は余り聞いたことがありませんでしたが、検索してみると宮城県丸森町で、現在も行われているようです。また、noteに岩手の伝説として触れているものもありました。

 どちらも鶴供養は、かつて食用などのために鶴を猟っていたことに基づいた、鶴自体の供養という内容であるのに対して、利根町の鶴供養は、鶴ではなく、鶴に纏わる人に対する供養である点が、大変興味深いところです。記事では、それこそ昔ばなしのように、かなりあいまいな書き方をしていますが、利根町ではよく知られていた話なのでしょう。

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利根町版の鶴供養を調べてみると、以下に詳しく説明されていました。利根町の布川地区に伝わる、「延宝の鶴殺し事件」に由来するとのことです。

延宝5年、布川の隣、押付村の鈴木太郎左衛門をはじめ一族3家族10人が幕府の鳥見役人(大名の鷹狩りのために住民の鳥捕獲を見回る)に捕らえられ処刑された。

 鶴を殺したということで、子供を含んだ10名が処刑されたという、実話が元になっているようです。以下のブログには、現在の供養塚の様子やこの話の詳細が書かれています。それを見る限り、特別に祀られているという様子もなく、未確認ですが、現在では鶴供養自体行われていないのではないのでしょうか。広報誌の写真の中の供養塔は、上記ブログの写真と同じものに見えます。ただ、広報誌の写真には供養塔の横に寺社のような建物が見えますが、現在それも存在しないようです。

 もう一つ取り上げる記事は、昭和41年6月10日の第26号、「ぼくらは土の子だ」です。これは広報誌の1,2面を使った大きなニュースとして報じられています。
利根町の東文間小学校、文間中学校に、当時の農林水産大臣が訪れ、水田での様子を見学したり、子供たちと語り合った番組が製作され、NHKで、単発のルポとして放送された番組が、取材、製作された時の様子です。
NHTのアーカイブズ、NHKクロニクルにも記録があり、昭和41(1966)年5月5日(木)の、午前06:30~午前06:54に放送されたとあります。

映像は見ることができませんし、当時の放送データの常として、おそらくはテープの再利用などがなされて、映像そのものは存在していないと思われます。

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紙面を見る限り、子供たちと農林大臣との会話が主で、番組そのものの意図などがよくわかりませんが、改めて昭和40年代の農業を考えると、その辺りの事情が見えてきます。

以下に、昭和40年代の農業に関して、わかりやすく解説されています。

昭和40年代の前半は高度成長が続き、後半はオイルショックに伴う世界的なインフレが進み経済情勢は激動した。一方、農村では兼業化の進行、就業者の老齢化等農業構造の弱体化が目立つようになった。また、米の生産過剰が表面化し、史上初めて生産調整を余儀なくされる農業農村を取り巻く環境は大きく変化していった。

 高度成長のトレンドに乗り切れなかった、と言うか、元々農業を中心とした1次産業自体、この国では生産性が伸びずに衰退していったわけですが、その辺りが顕在化し始めたことに対する、一つの啓蒙的な意図があったのではないでしょうか。
 実際、この後昭和43年頃から、中央で農業振興を意図した事業が創設され、さらに法律も制定されて行きます。近郊にある稲作農業を中心とした地域として、利根町が取材対象になったものと思われます。

記事に、大臣と生徒たちのこんなやりとりがあります。

アナ:農業をやっていく人はありますか?
児・生:あんちゃんがいるからやれない。
アナ:農業のいいところは…
児・生:自分の好きなようにやれるから。

児・生:ほかにやりたいことがあるから農業はやれない。
アナ:どんなことを
児・生:留学したい
(女生徒にマイクを向ける)
児・生:農業は嫌いではないが、都会の方が好きだ。
農業は働く割に収入が少ないから。

農村にもいいところはあるが、やはりあこがれは都会だ。
大臣:やっぱり都会にも農村にも、どちらにもよいところもあるし悪いところもある。そのへんをよく考えたい。そこは学校で教わるから心配はないが。

余りかみ合っていないようにも見えますが、当時の農業を巡る事情や農家側の事情、若い世代の意識などが見えてくるようにも思えます。
この中の何人の生徒たちが、農家を引き継いだのでしょう。
昭和41年の時点でも、「あんちゃんがいるからやれない。」といったような事情があったことにも少々驚きました。この時代は、2次産業からサービス業を中心とした経済成長と、1次産業の間の温度差のようなものが見え始めてきた時期でもあると言えるでしょう。

 以下の写真は、「広報とね」昭和41年5月号の、結核検診の様子です。当時は結核が、「亡国病」などとも呼ばれていたとも書かれていますが、現在の状況も、病気の種類は異なっているとは言え、余り違いは無いようにも感じます。


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