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在宅介護のストレスを考えてみる

こんにちは。

父の前頭葉が委縮して、これまで認知症と思っていた状況が、「前頭葉症候群」として移行しつつあり、さらに精神的な「妄想」なども加わって、現在は、はっきり言って「人殺し」のような凶悪な顔をして、リビングに座ってテレビを観るようになった父を紹介します。

もともと「短気・粗野・外面がよい」性格で、「昭和のオヤジ」タイプの男です。ただ、神話的に語られている「メシ・フロ・ネル」ということを想像されると困ります。父は、外から帰って来て、母に「メシ・フロ・ネル」と言ったことなど、一度たりともありません。なぜなら、「昭和のおふくろ」タイプの女である母は、すべて言われる前に準備しているからです。

それから、これは若い女性には理解しづらいことかもしれませんけれど、仮に汚く食べられたり、味に文句を言われても、母がふてくされて、翌日食事を出さない、などということも、一度たりともありません。文句を言われて黙っていることもありませんけれど、それで喧嘩をすることもありません。わたしの母など、昼食に出したパスタを「まずい! さげろ!」と言われても、その日の夕食は、きちんと作っていました。

父はどこまでも「自分勝手・わがまま・好き勝手」であり、母はどこまでも「大丈夫・心配しなさんな・しょうがないわね」なのです。

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「孤立」の前提の誤り

まずはそういった前提が母父にあり、そのうえで現在の父の状況をネットで公開することで「ああ、それわたしにも当てはまる!」ということを増やし仲間を増やしたいのです。

と同時に、ネットにあるいくつかのことに「それ違う! そうじゃない!」という形で答えることで、検索キーワードを増やしていきたいと思います。

介護の「ストレス」に、周囲(家族・兄弟など)が「非協力的」ということがあります。我が家はそれがありません。むしろ、母がひとりで頑張り過ぎということと、わたしが「一人っ子」であるから、兄弟に頼れる状況など、初めからない、ということです。これを「孤立」と呼ぶなら、孤立です。

しかし、わたしの考えは、もっと違うところにあります。

現代社会では「周囲が非協力的」というよりも、

1.どうやって協力を求めていいのか、その手段が分からない
2.介護と認識できないような、暴言や暴力をじっと耐えている
3.介護に追われ、協力先を探すことをするゆとりがない
4.他人に協力してもらうという、そんな発想が浮かんでこない
5.ネット、という概念はあるが、どうしていいのか分からない

こういったことだと思います。

要するに「ネット社会」にしたことで、「救える多くの家族が、個別化され不可視化され、ネットも分からないバカなら、救われずに死ね」という非情な社会になった、ということです。それもターゲットは、「ン十年、連れ添ってきた夫だから」とか、分かっている人からみれば、実に「バカげたマイルール」に縛られているだけの、純粋で優しい、生真面目で、自罰的で、何より「他人様にご迷惑はおかけできない」とか、古い日本人らしい「どこで誰が見てなくても、おてんとう様はみている」とか、「ご先祖は見ている」とか、「そんなことしたら恥かしい」いった考えを持つ方々です。そして、一様に「時代遅れ」という烙印を押されて、「ネット、という言葉は分かるけど、使い方は知らない」という存在なのだと想像されます。

だから、この「非協力」というストレスは、これまでのような「兄が役目を果たそうとしない」とか「妹が世話を嫌がる」とか、そういうものと次元が異なる「非協力性」が「意図的に生産されている」という視点から捉え直す必要があるように思うのです。

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ネット社会は「在宅介護者」を「孤立」させる

そもそも、名称はいろいろあるけれど「ケアプラザ」「ケアセンター」「認知症センター」を利用するのに「ネットでアクセスしてください」という、この現状が「在宅介護の介護者を孤立化させている」のです。「家族や親類が非協力的だから、孤立している」ばかりではありません。それ以前の問題ということです。

だから「ひとりで悩まず、孤立せず、ケアマネジャーに相談しよう」なんてアドバイスを見かけますけれど、ハッキリ言って「この人、なんて見当違いな記事を書いているんだろう」と思います。これは、明記しておきます。

何度も書きますけれど、「ケアマネジャーが自分が住んでいる地域のどこに存在しているのか、どうやってケアマネジャーという職業の人と繋がるのかなどを知るためには、まずネットで調べることが大前提になっている」のが大問題なのです。

合わせて言えば「仮に、その存在がどこにいるのか分かったとしても、そこへ行く時間はないし、場合によっては被介護者に監視されていて、萎縮して電話もできない」とか、そういうことが「ストレス」なのです。

また、「介護申請」は、「ケアプラザ」などで出来るようなことを言っていますが、そのケアプラザの職員から「住まいの役所で申請してください」と言われることがあります。すると、役所へ行く時間なんてない、ということになる。認知症を疑う旦那を連れて「この人、認知症だから介護認定の申請をしたいんです」なんて言える人は、そうそういないのです。それが出来ているなら、とっくに家を出て、誰かに助けを求めています。

仮に本人の前で介護申請をしたとしても、職員が来て質問をし、さらにそこから認定までに何週間も待ち続ける。その間、「ケアマネジャー」だって、プランなんて立てられないのです。立てられるように言っていますけれど、実際には「介護申請をした方がやりやすいので」と言われるのです。

すなわち、その間、家族は「強制的に孤立する」のです。

病院へ行くことも同じです。幸いわたしの父は、病院へ行くことを嫌がっていませんけれど、これから嫌いになるかもしれません。一度、入院などの経験をすれば、嫌な思い出が残る可能性が高いため、「次も行きます」とは、なかなかならないでしょう。最初から行きたがらない被介護者を抱えた家族もいらっしゃるはずです。

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なぜか高い「介護申請」のハードル

病院へ行くことについてのハードルを言うと、そこへ「診療目的」で行く、そのための外出だけが難しいのではなく、「介護申請」のために、実際には「主治医意見書」を書いてもらう必要があることです。

介護申請をするさいには、わざわざ病院へ行って(これが遠方にあれば、それだけでもリスク。連れ出すことが困難だから)、そこで主治医の先生に

1.「書いてくれる?」と聞く。
2.1をクリアしたら「アンタの診療科名はなーに?」と聞く
3.2をクリアしたら「アンタのフルネームは?」と聞く。

それを「病院」で「直接」クリアしなければいけません。もうお分かりですね? 「だから、そもそも外へ行けない状況だから、在宅介護なんだ!」ということと「その病院がどこにあるかを、ネットで調べることになってる」ということなんですよ。「孤立せざるを得ないシステム」なんですよ。

おまけに、その「主治医意見書」の3つのハードルを飛んでも、時を経て、役所から「主治医意見書依頼書」というのがやってきます。それは「家族」の元へ届くので、「はい、それ持って病院行ってね」ということなのです。

え? なになに? 先生様に封筒一通渡すだけで、一秒だって目を離すのが危なっかしい被介護者を置いて、病院へ行けというの? ということなんですね。連れていければいいですよ? でも、連れて行けない状況の2人暮らしの老夫婦なんて、いくらでもいると思います。

継続の場合は「主治医の元へ郵送」と出来るのに、なぜか「初回だけは」、かならず「主治医に直接、届けなさい」となっているのですよ。この、何か意味のわからない「初回だけ特別」的な思考は、さっさと捨てるべきです。

こういったことをして、ようやく「介護申請」の流れが整ってくる。ですがだからといって、「要支援」とかに認定されて、そこからどうすればいいのか、ということですね。介護者の疲労は右肩上がりです。おまけに被介護者の悪化というのは、右肩上がりになるのではなく、昇り階段方式です。

要するに、あるときまでは「Aという状態」が一定して続いていたものが、ある瞬間から「Bという状態」へ厄介になっていく。少しずつ出来ないとかではなくて、何か突然「これも出来ない」となって、それが元に戻ることがない、ということです。

そういう被介護者の「悪化の階段」を、介護者は一段一段登り続け、後ろに下がろうとしても、もう足元の階段は消えていって、肉体的・精神的な疲労が積み重なっていく上に、昇ったからとて得るものはないという徒労感だけが降り積もっていくわけです。

そのような意味で、たとえヤブでもなんでも、お医者様や、ケースワーカーの方、相談者というものは、いわば「踊り場」であり「ベンチ」であって、本当にちょっとしたものでも、介護者にとって大きな安らぎとなるのです。

その「踊り場」や「ベンチ」の場所、アクセスの仕方を、階段の途中に親切に案内してくれればいいだけなのに、そこを「じゃあ、ネットで調べて」になっているのは、本当にくだらない話だと思います。「時代遅れでいい場面がある」ということを、国は理解すべきでしょう。なんでも「宇宙」だとか言ってれば介護保険が豊かになるわけではありません。

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本当に繋がりたい人のこと

何より、わたしがいくらワーワーと書いても、本当にわたしが「この人と、きちんと繋がって情報を交換したいな」と思う方々は、おそらくネットなんて出来ずにいる「昭和のオヤジとおふくろ」のコンビで、そして子供は独立して家を出て行っちゃった、あるいは、子どもなんていません、という家庭の在宅介護者ではなかろうか、と思うのです。

そのような人たちを救い上げるのが、政治であるべきです。それを、介護や福祉の分野から予算を削減していくなど、鬼畜の所業です。合わせて、自分が出来るから、自分が開発しているから、ということで、ネット社会を推進しておきながら、こうした「孤立者」を増加させた責任を取らずに、対策もせず、金儲けのことばかり考えている者たちも、断罪されるべきなのです。

マイクロチップを打ち込んだところで、こうした介護の苦労が減るわけではない。いい加減に目を覚ますべきでしょう。

確かに「昭和のオヤジ」は、いずれ本当にこの世から消えていきます。でも彼らが消えるまでの間、家族は苦しみ続ける。システムだけが進化していき時代だけが止まっていくのです。このギャップのひずみとはざまに、在宅の介護者は、身体と精神をすり減らされています。まるで「そうやって疲弊し共倒れすることを待っている」ような国の在り方は、明らかに日本人たちが考えたものとは思えません。「大陸的」な淘汰思想です。

それを日本の島国に持ち込んだのが、何者であるのか、わたしは知りませんけれど、そうして老々介護は自滅し、40代介護者たちは精神を病む。その病んだ人たちを使って、この国は何がしたいのでしょうか。壮大な人体実験でもして、チェスのコマでも操っているつもりなのでしょうか。

とにかく、このバカげたシステムを考えたのが企業なのであれば、訴訟でも何でもして叩き潰すことでしょう。日本中の在宅介護者が訴えれば、一企業などひとたまりもないのですから。そうでもなくても、知事レベルであればリコールをすべきだし、国家であれば、そのような政党に一票を投じるべきではない、ということなのです。

とにかく、多くの苦しみから、少しでも在宅介護者が解放されることを、切に願うものです。



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