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こころの「模範解答」

感情に正解なんてないんですよね。

ピアノと僕

小学生から高校生くらいまで、ピアノを習っていました。
きっかけは些細なもので、母の実家や親戚の家にピアノがあって、それを弾ける母が羨ましかったから。母方にも父方にもピアノ経験者がいたのは恵まれていたと思います。ピアノを習っていたおかげで学校の音楽の授業は本当に楽だった記憶があります。
しかし僕は決してピアノが「上手」とは言えませんでした。なぜなら、僕はある程度音が正しく追えるようになりリズムも正しく取れるようになると、その曲への意欲がなくなってしまうタイプだったからです。
音楽を嗜んだことのない人からしたらもしかしたらそれの何がまずいのか分からない人もいるかもしれないので補足すると、音楽というものはただ音を正しく出せたらそれで良いというものではありません。それで充分なら機械に奏でさせていれば良いでしょう。ピアノを習うことの意義は音を追えるようになる技術的な面とまた別に、作者が楽曲に込めたものを読み取り表現する力を養う、という面があります。
少なくとも僕を教えてくれていたN先生はそういった心の機微というものを大切に扱う方でいらっしゃいました。
ピアノの音も好きだし、ピアノを弾くという行為自体も嫌いではなかったのですが、僕はとにかくこの「感情を込めて弾く」という最後の仕上げともいえる工程が苦手かつ嫌いでした。
結局、高校生になって勉強についていくためという理由でピアノ教室は辞めてしまい、僕は表現力という面でついぞ何かを習得する境地には至りませんでした。

道徳と僕

そしてそれと同時期、僕は深刻な別の課題にぶつかっていました。
小学校高学年ごろから道徳の授業が全く理解できなくなったのです。
道徳の授業は、何かしらの物語や説明文などを読んで中心人物の立場や状況、周囲の反応などを材料にどう言った行動が望ましいか、自分だったらどうするかを考えるものですよね。基本的に正解はないとされてはいますが、相手を思いやる気持ちや周囲に貢献する気持ちを育むという名目上、一定の方向性はあります。
僕が道徳の時間をどう苦しんでいたのかと言うと、「ここで求められているのは○○という回答なのは分かっているけど、どうしてもそれを自分の言葉として文字にして書き起こすことが出来ない」、ということでした。

「分かってんなら書けばいいじゃん!」と思った方います?
違うんです、なんて説明したら伝わるか分からないんだけど、そういうことじゃないんです。「何を書いても自分が思っていることとは違う気がする」と強く感じていたんです。
この感覚が何人の方にご理解頂けるか本当に自信がないのですが、当時の僕は自分の感情というものが全く分からなくなっていました。
心の中さえ満たせれば」でも触れましたが、当時も絵を描くのは好きでした。好きな人もいました。苦手な人もいました。将来行きたい学校もありました。でも友達とコミュニケーションをとることや相手の気持ちを想像すること、みんなのためになること、なんというか他の人と関わることについてどうしようもなくダメだったんです。
国語の心理描写は分かるのに、道徳の登場人物の気持ちはまるで分からなかった。「模範解答」がないことは分かるから「回答」出来なかった。
どう言えばいいんでしょうね。この時、朧げに「僕は人の心が分からない」と思いました。ただ、当時の環境的に自分の心を閉ざしていた時期でもありましたから、そのせいだと思っていました。

哲学と僕

そのまま僕は高校、大学と進学し、色んな人やものに出会いました。その中でも大きな影響を受けたというか、自己理解を深めるきっかけになったことが二つあります。
1つ目は哲学でした。
元々日本文学を学ぼうと思って進学した大学で何故か哲学科に進んだ僕は、自分自身の思想に向き合い続けることで、自分が「他者の心を勝手に推測すること」に悪を見出していること、そしてその理由は自分が人の心を全く理解できないからだということを思い知ることになりました。理解できない人間が他者の心を想像したとて到底正解には至らないのです。ならば想像することは悪であった。そして他者でさえ僕の心を理解することなど出来はしないと思っていました。
2つ目は創作活動でした。
繰り返し触れますが、絵を描くことが好きでお話も作って、心の中の世界をただ表現することに夢中になっていた僕は、ある人からの指摘を受けて、自身の創作世界が露悪的、悪意的、そして排他的であることを知りました。
どこまでいっても一人。外的存在はおしなべて自身のことを理解せず、害をなす存在である。他者を信用するということは急所にナイフをあてがわせるようなものであり、賢いならばそんなことしないものを、愚かな登場人物達は破滅へ向かう。
そしてそんな感情のめちゃくちゃな創作をしている僕自身も、非常識で頭がおかしいのだと。
この表現には様々な誤解を含んでいることを理解しています。創作とそれを描く人間の情操とはイコールで結ぶべきものではなく、表現したいものに忠実であることには悪は時として存在しません。
他の事例がどうかは知らないしどうでもいいが、とにかく僕はそうである、というだけの、話。

自分でない人間を描こうとしながら他者の心が理解できない僕には、僕の内面しか見えていないのですから、それは全て僕の複製の出来損ないのようで、それが世界の全てであるかのようで、だからこの世は残酷で、美しい(笑)のだと一人合点しているような、それが僕の内面だと今は思っています。


……少し話が逸れました。

不安だらけの真っ暗な道

人は信じられるひとつの指標があればそれを頼りに生きていけるのだと言います。
本当の意味で分かっているとはとても言える自信がないけれど、何も知らない、見えないことに気づかないよりは、自分が盲(めくら)であることに気づいている方がずっといい。
僕のこれまでの経験や行動に悔いがないと言えば嘘になるかもしれないけれど、それも含めて僕であってなかったことには出来ないので、いつも考えています。

僕のこころの模範じゃない回答と、誰かのこころを思いやる行為を是とできる自信と、それからそれを歪めずに口に出す勇気が欲しい、です。


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