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エリゼ・ルクリュ『進化、革命、そしてアナーキーの理念』第一章(試訳)

訳についてはまず訳者序をご覧ください。
第二章
第三章

第一章

全宇宙の進化と部分的な革命-公転
「進化」と「革命」という言葉の誤った意味
臆病または近視的な、偽善的な進化主義者
進化と革命、同じ現象の二つの継続的な段階

 進化(エヴォリュシオン)とはあらゆる存在するものの無限なる運動である。それは、永遠なる起源以来の、無数の時代における「宇宙」とそのすべての諸部分の途絶えることのない変革である。限界のない宇宙に現れる天の川は、数百万、数十億という時間のなかで凝縮し、溶解していく。星々や天体たちが生まれ、そして集まっては消えていく。中心星を持つ私たちの太陽系の渦、その諸惑星と月々、そして、私たちの小さな地球という球体の狭い境界のなかでは、山々が生じてはふたたび消え去り、海が形成され、そして干上がっていく。川を見てみると、それは谷間を流れ、そして朝露のように消えていく。次々と起こる植物、動物や人間たちの発生、そして人間から小蝿にいたるまでの微細な私たちの無数の生。これらすべては大いなる進化という現象でしかなく、その目的なき渦のなかにあらゆる事物を巻き込んでいるのである。

 進化、そして全宇宙の生という、この根源的な事実と比べて、天文学的、地質学的、あるいは政治的な革命-公転(レヴォリュシオン)と呼ばれるこの小さな出来事すべてはなんなのだろうか。ほとんど感覚できない振動、うわべ、と言うことができるだろう。宇宙の進化のなかで継起する革命-公転は無数、非常に無数にあるのである。しかし、それらはいくら小さいとしても、この無限な運動の部分を成しているのである。

 このように科学は「進化」と「革命」というこの二つの言葉のあいだになんらの対立も見出さない。この二つの言葉はきわめて似ているが、しかし、通常の言語においては、本来の意味とは完全に異なった意味で用いられている。運動の規模のみが異なる同じ秩序の事実と見なすのではなく、あらゆる変化を恐怖で満たしている臆病な人々は二つの言葉に絶対的に対立した意味を与えている。「進化」というのは思想や風習における段階的で連続的な発展と同義であり、あたかも「革命」というこの恐ろしい事柄とは反対であるかのように示されている。その「革命」は、事実において、多かれ少なかれ急激な変化を含んでいる。彼らは、明らかな、または正直でさえある熱意をもって、進化について、脳細胞のなかで、知性の隠し事や胸のなかで実現する、ゆっくりとした進歩について議論している。しかし精神のなかから不意に飛び出して街中で勃発し、ときには群衆の怒号や武器の激しい音を伴う素晴らしい革命については彼らに話さないでおこう。

 なによりもまず、進化と革命のあいだに、平和と戦争、優しさと暴力というコントラストを思い描くことで示されている無知さについて確認しよう。諸革命は、急な環境の変化で利権の逆転が引き起こり、平和的に実現しうる。同様に諸進化は、戦争と迫害を混ぜ合わさり、きわめて骨のかかることもある。もし「進化」という言葉が、革命家たちを恐れて見ているような人々にとっても喜んで受け入れられるとしたら、彼らは進化の価値をまったく理解していない。というのも、彼らは(その場合)進化そのものはどうあっても望んでいない(ことになる)のだから。彼らは一般的な意味の進歩についてはよく話すが、特殊的な意味の進歩は拒絶する。現実の社会、すっかり悪い社会で、かつ彼ら自身がその悪さを見ているのだが、彼らはその社会を保守する方が良いと思っている。その社会は彼らの理想を実現するのに十分だからだ。富、権力、尊敬、満足感といったものである。富者と貧者、権力者と臣民、主人と奴隷、戦いを命じる皇帝と死にに行く剣闘士がいるのだから、賢明な人々は富者や主人の味方につかなければならないだけ、自ら皇帝の家来にならなければならないだけだ。この社会はパンを、金を、居場所を、名誉を与えてくれる。結構!理知的な人々は運命の贈り物すべてから、自分の取り分を確保するよう手筈を整えている、可能な限り最も多くなるように!もし彼らの誕生を司っているなんらかの良い運命の星が、彼らからすべての闘いを免除し、彼らに遺産として必需品と贅沢品を与えていたとしたら、彼らは何かに不平を言ったりするだろうか。彼らは、みんなもまた自分たちと同じように満足していると思い込もうとしているのだ。満腹の人にとっては、みんな美味しく夕食をとっているのだから。(そして、)幼少の頃より社会から豊富に分配されることがなく、また自分自身としても、現実の状態に不満を持っているようなエゴイストに関して言えば、それでも彼は策略あるいは媚びへつらいによって、巡り合わせの幸運な気まぐれによって、あるいは権力者への奉仕に猛烈な労力を費やすことで、自身の地位を勝ち取ることを望みうる。どうして彼にとって社会的進化など問題になるであろうか。大金に向かって進化することが彼の唯一の野望なのだ!すべての人のための正義を追い求めるどころか、彼からすれば自分自身のための特権を求めるだけで十分なのである。

 しかしながら、素直に思想の進化を信じ、事物に見合った変革のなかで漠然とした希望を持ち、にもかかわらず、本能的、ほとんど身体的な恐怖の感情によって、少なくとも自分たちの生きている間は、すべての革命を忌避しようと欲する臆病な心の持ち主たちがいる。彼らは進化を提起すると同時に革命を避けている。彼らは現代社会を批判し、まるで一種の奇跡によって突然出現することになっているような未来の社会を夢見ている。過去の世界と未来の世界のあいだの亀裂のほんのわずかな前兆すら生じることなしに。不完全な奴らだ、彼らは思想を持つことなく、欲望だけを持っている。想像はしているが、まったく望むすべをもたない。彼らは二つの世界に同時に属しているので、どちらの世界においても裏切りの判決を受ける運命だ。保守主義者たちの世界においては、彼らはその考えと言葉のせいで退廃の一要素であるし、革命家たちの世界においては、彼らは青年期の直感を放棄しているので、徹底的に反動となっている。福音書が語る犬のように、「自分の吐いたところに戻ってくる」(「ペトロの手紙」第二章22節)。このように、革命のときのアンシャン・レジームの最も熱心な擁護者は、かつてアンシャン・レジームを嘲笑しながら追従していた者どもであった。彼らは先駆者から変説者になったのである。言い伝えのなかの不器用な魔術師たちのように、自分達の弱い意志や気の小さい手にとって、あまりに恐ろしい力を解放してしまったということに気付くには遅すぎたのだ。

 異なる革命主義者のクラスは、実現すべき変化の総体のなかで、ただ一つの変化しか見ておらず、他の社会の変化には気にかけないで、そのただ一つの実現に完全に徹底的に従事する人々のクラスである。彼らはあらかじめ限定された狭い活動の領域を持っている。何人かの人々、器用な人々は、そうすることで自分達の良心に平穏に従い、自分たちに危険を及ぼすことなく未来の革命に従事することを望んでいた。次なる実現の変革に自らの努力を費やすという口実のもとに、彼らはあらゆる優れた理念を度外視し、そうした理念を共有しているかどうか疑われないために、怒ってでもそれを遠ざけている。そのクラスのほかの人たち、もっと誠実な人、あるいはまったく尊敬すべき人、偉大なる仕事にほんの少しでも貢献している人、精神の偏狭さのせいで、実際たった一つの進歩しか視界に入っていない人たちである。彼らの思考と行為の誠実さは、彼らを批判の向こう側へと置く。いかに彼らが宿営している戦場が狭いか、たった一つの悪習に対する彼らの独特で特殊な怒りによって、彼らがいかにすべての正義のために他の不正を捉えているつもりなのかを、悲しみながらまったく認めてはいるものの、私たちは彼らを兄弟と言う。

 ただし私は、正書法の改善であれ、時刻の決まり、あるいは子午線の変更であれ、さらにコルセットやベアスキンの廃止であれ、確かに素晴らしいのだが、それらを目的と見なす人々のことを言っているのではない。しかし嘲笑をまったく引き起こさず、その中心人物に忍耐と献身を要求するもっと真剣なプロパガンダがある。革新的な人々に申し分のない正義感、犠牲的な熱情、危険に対する無頓着さがある以上、革命家は彼らと共感および敬意を交わし合わなければならない。たとえば、高貴な性格で、世間を前にしたあらゆるスキャンダルとは無縁の、純粋な愛情を持つ女性が、娼婦のところに降りて行って、「君は私の姉妹だ。君を罵り、君の身体を押収する道徳風紀の警官や、お巡りに君を逮捕させ検診によって君を冒涜する警察医や、君を軽蔑し、足で踏みつけるような社会全体に対して闘うために、私は君と同盟を結ぼう」と言っているのを私たちが見ているとき、一般論に気を取られ、公的社会のふしだらさに対して闘う熱心な進化主義者への敬意を出し惜しむ者は誰もいない。確かに、私たちは彼女に、すべての革命はつながり合っていると言うことができる。国家に対する個人の反逆はつらい労働で苦しんでいる人あるいは他のすべての排斥されている人の大義を、娼婦の大義と同様に、含んでいるのだ、と言うことができる。しかしそれでもなお私たちは、この狭く閉ざされた領野において善戦をしている人たちへ称賛の念を抱き続ける。同様に、どんな国だろうが、どんな時代だろうが、時代遅れの考えを持たず共通の大義のために身を捧げた人たちすべてを私たちは英雄と見なす、彼らの視野がいかに狭かったとしても!私たちの一人一人が感動をもって彼らを称え、「はるかに広大な、地球全体を含む私たちの戦場においては、彼らは同等であると知りましょう!」と考える。

 確かに、社会の生の総体を構成している部分的な諸出来事において、常に明白な(進化と革命の)平行関係はないにもかかわらず、進化は人間的な事柄の総体を含むのであり、革命もまたその総体を含んでいるのだ。すべての進歩は連帯しており、私たちはみんな、私たちの意識と私たちの力が及ぶかぎりでそれらを欲しているのである。社会的で政治的な進歩、道徳的かつ物質的な進歩、科学の進歩、芸術あるいは産業の進歩を。歴史そのものは準備された系列が継起する諸実現の系列に過ぎない、ということを知っていれば、私たちはすべての事柄に関して進化主義者であり、同時にすべての事柄に関して革命家でもある。精神を解放する偉大な知性的進化は、論理的帰結として、結局は他の諸個体とのすべての関連において、諸個体の解放をもたらす。

 従って、進化と革命は同じ現象の二つの継起的活動だと言うことができる。進化は革命に先行し、その革命が新しい進化に先行し、その進化は未来の革命の母である。変化というのは、生における均衡の突発的な転換をともなうことなしに生じうるのだろうか。行為が行為する意志に継起するのと同じように、革命は進化に継起してはいけないことがあるだろうか。どちらも出現の時期によって異なるのみである。崩れ落ちた堆積が川をせき止めると、その障害物の上流側に少しずつ水が溜まってきて、ゆったりとした進化をとおして湖が形成される。それから不意に川下の土手に浸水が起こり、小石が落ちてきて大異変を引き起こすだろう。せき止めていたものが激しく押し流され空になった湖が再び川になる。こうして陸上の小さな革命が起きる。

 もし革命が常に進化より遅れてくるのだとしたら、その原因は環境の抵抗にある。流れる水が川岸のあいだで音を立てるのは、川岸がその流れにおいて水を邪魔しているからである。雷が空で轟くのは、大気が雲から発せられる火花に抵抗しているからである。物質のそれぞれの変革、観念のそれぞれの現実化は、変化のまさにその時において、環境のもつ慣性によって妨害される。新しい現象は、その抵抗が大きいほどよりいっそう暴力的な努力、あるいはよりいっそう強力な力によってのみ実現しうる。ヘルダーは、フランス革命について述べている際、すでにこう言っていた。「種が大地のなかに落ちる。長いあいだそれは死んでいるように見える。それから不意にそれは冠毛を押しのけ、自らを覆っていた硬い大地を突き破り、敵対する土に暴力を振るい、そこで樹となり、花を咲かせ、果実を実らせるのだ」。子どもはどうやって生まれるのだろうか。母胎の暗闇のなかで九ヶ月留まったのち、自身を覆いつつんでいたものをうち破りながら出てくるのは同じように暴力によってである。自身の母を殺してしまう時さえある。革命はこのように、革命に先立つ進化の必然的帰結なのである。

 格言風の言い回しはきわめて危険である。というのも、熟考しないですむように、それを機械的に繰り返す習慣をすすんで身につけてしまうからだ。いたるところでリンネの言葉が繰り返し言われるのもそういうことだ。「自然ハ飛躍セズNon facit saltus natura。」確かに「自然は飛躍しない」が、しかし自然における進化はそれぞれ新しい点に向かう力の転換によって実現するのである。それぞれの個別的な存在およびそれぞれの存在の系列における生の一般的な運動は直接的な連続を私たちに一切示さず、間接的な、いわば革命的なある継起を常に示している。枝は長くなることで他の枝に加わるのではない。花は葉の延長ではないし、雌しべも雄しべの延長ではない。子房は、子房を産んだ器官とは異なる。息子は父親あるいは母親の存続ではなく、まったく新しい存在なのである。各々の異なる個体の出発点の連続的な変化によって進歩は起こるのである。種(しゅ)についても同様だ。存在-生物の系統樹は、樹そのもののように、各々の枝が、先行する枝においてではなく、独自の精気において、自身の生の力を見出す枝の総体である。偉大なる歴史上の進化においても事情は異ならない。古い額縁、有機体のきわめて限定された形式では不十分になったとき、生は新しい形成を現実化するために自ら転換する。革命は実現する。

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