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「再考〈21世紀の岡崎京子〉」に行ってきた

映画「リバーズ・エッジ」公開に合わせて刊行された書籍「エッジ・オブ・リバーズ・エッジ」の発売記念(?)イベントとして開催された「再考〈21世紀の岡崎京子〉」に行ってきた。

出演者は「岡崎京子の研究」の著者であり、彼女の作品ならすべて肯定するというネットワーカー・ばるぼら。95年生まれの地下アイドル・姫乃たま。そして「エッジ・オブ・リバーズ・エッジ」に「岡崎京子の死後」を描いた漫画を寄稿した漫画家の西島大介だ。

共通点を挙げようと思えば挙げられるのだが、いまいちどんな会話が交わされるのか想像のつかないメンツだったけど、結果から言えばおもしろいイベントだった。

時系列に沿ったイベント内容の話がしたいわけではないので雑多に書く。

ばるぼらは、この日のために岡崎作品の雑誌掲載時と単行本の修正と引用=サンプリングの元ネタを紹介する発表を用意していた。

単行本修正に関しては必要最低限で、冨樫義博(を持ち出すのも極端な例にはなるが)のように単行本掲載時に大幅に絵を描き直される事例に慣れていると、驚くほどすくない。

作中の時系列をズラすことによってページ数がかわってしまい、掲載時は左側に来ていたページが右側にまわってしまう例が何点かあったのだが、西島も指摘していたが、これはかなり強引なやり方で、ページをまるごと描き直すことになっても不思議でない修正だけど、岡崎はまるでパズルを組み替えるようにそれをしてしまう。

そして岡崎の引用=サンプリングは悪くいえば「テキトー」だ。歌詞を引用するにしても、細かい言葉回しはアレンジしてしまう。

たぶん岡崎は、サンプリングという行為自体には意味を与えていない。引用はあくまでも「作品にハマるからパーツ」を当てはめているだけで、引用することによって、作品を引用元の文脈に組み込む意思が希薄なんじゃないだろうか。ただ身の周りにあるものから、漫画の参考になりそうなネタや、連想された頭の中のフレーズを抜き出しているように見える。

(そして、とうぜん彼女の周りには、彼女と仲間たちの音源や、趣味のもので溢れかえっている)

気になったのは丸尾末広からの引用。丸尾末広もまた引用を多様し、自身も「パクり」を公言している作家だ。丸尾末広からは、単なるサンプリング元以上の影響を受けているのかもしれない。

さて、このイベントはそもそも映画「リバーズ・エッジ」を語る場として設定されたイベントだけど、西島は映画のアレンジに不満があったようだ。

映画では原作と同様、クライマックスでウィリアム・ギブスンの詩が挿入される。

西島は、このギブスンの引用が唐突で、平均的な岡崎京子の読者にはわかるはずのない引用であり、この読者を突き放す難解な飛躍が素晴らしいと評価した。

(とはいえ、この詩の引用元は91年に発売された都築響一が編集した ARTRANDOM が元ネタなので、さほど遠いものでもなかったのではないだろうか?)

でも、公開された映画ではギブスンの引用が唐突に感じられないよう、事前に登場人物が詩を手に入れる描写が加えられている。

このアレンジに「現代に、岡崎京子的な価値観は消え果てたのだ」と激怒した西島は「エッジ・オブ・リバーズ・エッジ」に寄稿した「岡崎京子を探せ DOUBLE KNOCKOUT 2049」を短編映画に仕立て、イベント上映のためのファイナルカット版を用意していた。

(イベントで上映されたバージョンはこの動画に声とクレジットが加えられている)

音源はブレードランナーからのサンプリングだし、タイトルの「2049」からしてブレードランナーだ。

「DOUBLE KNOCKOUT」が小沢健二、小山田圭吾の「DOUBLE KNOCKOUT CORPORATION」から引いていることは明らかで、むしろ知らなくても「これは何かの引用なんだろうな」とわかるような使い方をしている。

そればかりかいくつかの引用については、使った直後に作中で説明してしまう。

(イベントではさらに密に説明してくれた。説明してしまうところが西島大介だ)

西島大介の引用からは、引用したことをわかってもらいたい、そして引用元を知ってほしいという意思が感じられる。この感覚はゼロ年代の作品に強く感じられるもので、例えば「涼宮ハルヒの憂鬱」はSF作品からの引用に溢れているし、西尾維新の作品もわかりやすいパロディに彩られている。

引用を、引用とわかるように描く。その意図は、作品を原典の文脈に連ねようとする意思ではないだろうか。

岡崎京子に強い影響を受けながら、引用に対する意識は真逆に感じられる西島大介。その態度にふと、「リバーズ・エッジ」の翌年に放送がはじまり、西島にも大きな影響を与えた「新世紀エヴァンゲリオン」が思い出された。

庵野秀明の引用は趣味的だ。好きなミリタリーや、好きなアニメキャラクターの名前。「不思議の海のナディア」ではヤマトを完コピまでやってのけた。庵野秀明を形作ってきた作品が趣味的に並べられ、そこから得られるものは「ああ、好きなんだな」という感情でしかないのだが。

つまり、それなんじゃないか。

引用元に対する「好き」という感情が強いから、作品を引用元に寄せていく。作品を文脈に連ねようとする。わかってもらおうとする。

西島の引用は、動機としては庵野秀明のそれなんじゃないだろうか。そして、であればこそ、西島大介は間違いなく岡崎京子に連なる作家だ。西島自身がそう綴ったのだから。

そして西島は、庵野秀明の用意した趣味的な引用=謎がさんざん深読みされた後の作家でもあるし、西島の持つ批評性は、引用を趣味に留めておくことができない。自分を形作ってきた作品の歴史に、自分自身で書き加えようとする。

西島は、映画のアレンジについて「人生において、ギブスンを知る機会のある人間が、岡崎京子の世界に登場するわけがない、してはいけない」と言う。そこにはもちろん、西島自身も含まれるのだろう。自分が存在できない世界だからこそ、惹かれる。西島が岡崎に感じる魅力は、そういう種類の憧れだ。

対して、岡崎京子を指して「私の体験できなかった90年代」と表す姫乃たまには「当時を生きていれば、岡崎京子の世界を享受していたであろう」という無邪気な感覚がある。

この、二人のファンの在り方に、90年代からの長い時間と、21世紀の今もなお、消費され続ける岡崎京子の魅力が表れているように感じられた。

なお、イベントのアーカイブはニコ生のタイムシフトで見ることができる。


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