俺はアイシーを知らない 卯月コウ Focus on感想

~登場人物~
卯月コウ 「存在しないクラスメイト」
俺 自分を卯月コウのクラスメイトだと思っている異常成人オタク

 俺くんが衝撃を言語化するまでn日かかりました。
 今回はフォーカスオンの話をしに来たので卯月コウに狂うオタクを見に来た奴向け。
 あと音楽の技術的な話は全くできないからそういう話に期待している奴はすまんの。
まだ卯月コウのFocus onを聴いてない人は必ず聴いてから読んでください(リンク踏んでも俺には一銭も入りません)

前置き

 タイトル、それから過去のnoteにもある通り、俺はまだせいぜい一年半くらいのにじさんじ新参だ。俺はアイシーを知らない。かつて卯月コウが投稿した「らしい」オリ曲だということを伝聞形で知っているだけだ。正規の方法で、コウの歌声で聴かなければ印象も変わってしまうと考えているから、歌詞も見たことがない。もしもアイシーを知っている人にとっては片腹痛い表現が出てきたとしてもどうか「知らないことを選択した」俺の解釈として読んで欲しい。
 つまり、俺はフォーカスオンで初めて卯月コウのオリジナル曲を聴いたことになる。正直、期待をしていた。「あの」卯月コウがいったいどんなオリジナル曲を出してくるのか。卯月コウの解釈する「卯月コウ」像への期待だ。
 結果的にはその期待は、最高の形で裏切られることになる。このnoteは卯月コウの「卯月コウ」解釈に敗北したオタクの断末魔だと思って閲覧して欲しい。
 さて、俺は卯月コウにわりと偏執的な所謂「夢」感情を向けている自覚がある。
 それはたとえば、「卯月コウがクラスのオタクと喋っているのを後ろの席でイヤホンをして寝たフリをしながら聴いていたい」的な概念だとか、「プリントを回してくれた卯月コウに俺の筆箱に付いているキーホルダーを『●●(名字)も□□(作品名)好きなの?』って聞かれたい」的な概念のようなものだ。決してガチ恋ではないし同担拒否でもない。どちらかというと俺は卯月コウに「負け」たいのだから。誤解を恐れず言えば、俺は卯月コウにBSSしたい。俺の知らない卯月コウを知り、俺以外が卯月コウに引き上げられるさまに感涙したいのだ。

放課後シャングリラ

 そんな、俺が。放課後シャングリラを聴いた。
 完敗だった。まず「俺の望むコウ」像の出力が上手すぎる。俺は恐ろしくなった。「卯月コウという個人」は視聴者の望む像をこれだけ的確に把握しているのだと見せつけられたことへの畏怖だ。
 次に、俺はさながら駈込み訴えのような気持ちになった。ここまで「わかっている」うえで普段の配信のような振る舞いをしている卯月コウへの畏怖だ。俺を見ないで欲しい気持ちは俺を救って欲しい気持ちの裏返しだった。俺は、俺だけは、卯月コウとトリフィドの日が来ても二人だけは生き抜きたいのだ。

 ――話は変わるが、乃木坂46の「帰り道は遠回りしたくなる」という曲を知っているだろうか。

 俺にはどうも、放課後シャングリラがこの曲とダブって仕方がない。
「帰り道は遠回りしたくなる」の方はいずれ来るモラトリアムの終わりを見据えて居心地の良い場所から旅立つ日のことを希望を交えて歌っているが、放課後シャングリラはそうではない。モラトリアムの終わりを真っ直ぐに見つめながらも、居心地の良いシャングリラから旅立つ必要はないと歌うのだ。シャングリラごと運んでやると卯月コウは歌っている。かぎりなくよく似た題材で、真逆の結論を出している。

 ――モラトリアムの終わりに瀕して、卯月コウは俺を見捨てない。その事実に俺はどうしようもなく絶望し、同時に救われている。
 俺は、卯月コウにとってただの取るに足らないクラスメイトAでありたかった。卒業アルバムを見てもピンと来ないクラスメイトでありたかったのだ。同時に、俺にとっての卯月コウはモノクロームの教室で唯一色彩を持つ鮮やかな光だったのだ。
 俺は、卯月コウという光があれば日の当たる場所など必要ない。そう思っていた。
 実際、放課後シャングリラでは、「俺はずっと俺でいるから」と歌われている。
 だが、放課後シャングリラは「必ず連れてくよ 陽の当たる場所へ」という歌詞で締め括られている。これを俺は卯月コウなりの決意表明であると受け取った。

 かつて「将来滅茶苦茶になってくれ」「歩行能力を失うまでうづコウランドで一生を過ごせ」と答えた言葉に嘘はないのだろう。だからきっと、「必ず連れてくよ 陽の当たる場所へ」は。お前らも救われていい、お前らを救うという卯月コウなりの許しであり決意なのだと俺は考えている。
 だからこそ俺は絶望し、同時に救われている。少なくとも卯月コウ自身は、「俺ら」を連れていきたいと思うような陽の当たる場所の心地よさを知ったのだろう。それそのものは心の底から嬉しく思う。卯月コウはもう闇の中にいないのだ。卯月コウ自身の幸いを願うオタク心としては、卯月コウが今闇の中にいないことが本当に嬉しいのだ。
 同時に、卯月コウが居れば闇の中でも良かったのにな、という卑屈なオタク心が光などいらないから置いていくなと叫ぶのだ。それは、結局卯月コウも光を選ぶのかという失望でもある。初めから幻想しか見ていないにも関わらず、「同じだと思っていたのに!」と失望する。傍迷惑なオタクである。

何者

 そんな、傍迷惑なマインドセットで2曲目「何者」を聴いた。
 正直、最初は放課後シャングリラと比べてピンと来なかった。ありがちなJロックだな、という印象で、BUMP OF CHICKENの「ロストマン」(動画)のオマージュを感じたくらいだ。

 第一印象を総括すると「女性ボーカルだったら『そういう』ある種の美少女ゲームのオープニング兼エンディングで流れたらエモいかも」だ。
 逆に言えば第一印象から、既にある種の思想が強い美少女ゲームの雰囲気は感じ取っていた。田中ロミオ作品的といえば伝わるだろうか。
 簡単に言えば、社不な属性を持っても、それでも社会で生きていくしかない日々への希望を歌い上げる作風だ。田中ロミオ作品はこの「どうしようもなくても、生きていくしかない」者達が変われないなりに救われてそれでも折り合いをつけて生きていくテーマが多い。
 そしてそれは、放課後シャングリラに絶望した者へのアンサーでもある。両A面は伊達ではないのだ。卯月コウのフォーカスオンはこの2曲どちらも存在することで完成すると俺は考えている。
 最初は放課後シャングリラの方にすがっていた俺だったが、ふと何者を繰り返し聴いているときに、ラスサビが腑に落ちたタイミングがある。「望んだ明日はきっとこんなものじゃない 最果てよりも遠くの景色を見に行こう」が遠回りを続けた先の答えなのだろう、と感じたのだ。
 卯月コウはモラトリアムを受容する。そこから出たくない者を決して無理に引っ張り出しはしない。けれど、彼自身はもうモラトリアムの向こう側にいるのだ。何者が腑に落ちたとき、俺はそう直感した。それはきっと孤独で、辛いことだろう。何より、卯月コウという光を追いかけていた者にとっての絶望だ。
 卯月コウ自身、きっとそれを理解しているのだろう。けれど、もう卯月コウは闇の中には戻ってはこない。「鏡写しの痛み」に呼ばれても卯月コウは「夜明け」を迎えてしまったのだ。
 何者は「最果てよりも遠くの景色を」というフレーズで締め括られている。卯月コウの見る景色は最果てより遠い。独りでも、卯月コウはもうその先に歩いていけるのだ。何者は闇への決別だ。同時にそれは希望でもある。卯月コウは、闇の中にあったものが光の中に歩いていける道を示すつもりでいるのだ。
 少なくとも、卯月コウは「卯月コウ」をそうプロデュースする気でいると俺は捉えた。

おわりに

 俺は、まだそこには行けない。闇の中で卯月コウという眩い光の残光に目を焼かれ続けている。だからこそ、光の中を歩いていく卯月コウが眩しくて、悔しい。そして、同時に思う。どうか卯月コウの向かう先が溢れんばかりの光に満ちているように。もう闇を振り返らないように。結局のところ、俺は卯月コウと出会えた奇跡のような救いにまだ負けていたいのだから。

 あ、最後になるけどもう一度貼っとくから絶対聴けよ!(俺には一銭も入りません)


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